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自宅、美の猟犬 [マイハーベスト]

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お得意のポーズでいつも窓の外を眺めている子だった。

人の顔を見ると千切れるように尻尾を振って飛んできたクロとは対照的に、人間で言えばあまり感情を外に表さないような気難しさをシルバーの被毛と一緒に纏ったような子だった。
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「べべは暗いなあ」といつも夫は言っていたけれど、他の2匹より遅れてついてくる仕草や態度で、彼の気持ちは常に私たちへ寄り添っていると確信できた。
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べべが我が家へやって来たのは19年前。
夫が埼玉に開業した、我が家の歴史上最大の転換期の最中だった。

自宅はまだ横浜にあって、息子達は大学受験期。
私は埼玉と横浜の往復で疲れ果て体調を崩し始めた、そんな時だった。

そのせいか、一番可愛い時期であるはずの子犬のべべの思い出がほとんど無い。

家族のそれぞれが自分の事情に忙殺されて、性格の形成期にじっくりと彼と対峙してやれなかったことが、このネクラなキャラクターを構築してしまった理由だとしたら、それは本当に心苦しい。
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それでも独特の飄々とした天然ボケぶりで、彼はいつもみんなを和ませてくれた。
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多頭飼いの犬には序列ができるというけれど、後から家族に加わった陽気な4歳年下のクロ、鼻っ柱が強い6歳年下のメグの後ろに回されても、それを特別気にする風でもなく、常に群れと背景に同化していた。
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事情が許す限り犬たちはいつも私たちの生活の中にいるので、12歳で旅立った年下のクロより、大学入学と同時に家を出た息子達より、我々夫婦と寝食を永く共にした。
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先天性の糖尿病での闘病を余儀なくされていたクロに、おっとりと寄り添っていたのも彼だった。
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クロを2年前に送った後も、持ち前の黒い大きな瞳はみずみずしい生気を帯びており、人間で言えば90歳越えの年を感じさせなかったが、1年ほど前から後ろ足が硬直して歩行が不自由になり、そこから目に見えて外見の衰えが目立つようになった。

それでも1ヶ月に一度訪れるトリミングサロンでは、「毎回、今回がべべちゃんの最後のトリミングかと思いながらも1年経ったわよ。」と笑い飛ばされ、今まで病気一つしなかった彼の体力と旺盛な食欲に私も寄りかかっていたのだけれど、10月が知らぬ間に過ぎていこうとする足音に連れ去られるように、急に3晩苦しんだ後に旅立ちがやってきた。

べべ、もう逝っていいよ。早くこの苦しみから解かれなさい。

うめき声を上げる彼を抱きしめながら何度も言った私を最後に見上げて大きく息を吐き、そのあと二度と彼の吸気は戻って来なかった。

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世はハロウィンで浮かれ狂っている、そんな日だった。



べべの背中をさすり続ける眠れぬ夜に、行間に私を引き込んで、束の間看病から心を解き放ってくれた本は、中国陶磁、韓国陶磁、それに近代日本画の速水御舟作品の三本の柱から成る安宅コレクションの主、安宅英一氏に仕え、収集に深く関わった東洋美術研究家伊藤郁太郎氏の手記である。

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「安宅コレクション余聞 美の猟犬」(伊藤郁太郎著/日本経済新聞出版社)

美術コレクターを挿してよく使われるのは、美のハンターなる代名詞だが、「猟犬」とは?

読み始めてすぐ、これが、戦後のシャウプ勧告から市場に流出し始めた美術品収集で一大コレクションを築き上げた安宅産業取締役、安宅英一氏の薫陶を受け、その触覚となって収集に尽力した著者自身を指した言葉であることに気付く。

常に寄り添い、美術品という獲物への主人の審美眼をそっくり自分の感性に写し取り、見定めた獲物を射止める先陣を切って持ち帰る。
「(自分は)99パーセント以上は、常に敏速に反応する忠実な僕であり、美の猟犬であった。」
と著者は己を評している。

巨額の資金が動く美術品売買ゆえに、きな臭い修羅場や、会社の資金で(安宅コレクションは、すべて安宅産業の企業としての資産)業績に関係のない美術品を購入することへの社内の糾弾からの盾にもなる猟犬は、二度だけ自分の生きる信条に従って、慣行を後ろ盾に取った主人の反道徳に抵抗する。

100パーセント純粋な猟犬ではなく、人間としての信条を捨てきれなかった著者の葛藤と苦しみがそこににじみ出る。



国宝、重要文化財を数多く含む安宅コレクションは、安宅産業が石油問題に端を発した経営危機で安宅氏ら経営陣が会社から離脱させられた後、御舟作品群は山種財団に、陶磁群は大阪市に譲渡され、現在はそれぞれの美術館所蔵となっている。

後年、著者は車椅子生活となった安宅氏をその美術館へ伴い、一生懸命集めたコレクションが他人のものとなってしまった主人の口惜しさを思いやる。
それに対する安宅氏の言葉は次のようなものであったという。

「コレクションとは、誰が持っていても同じでしょう?」


完成されたコレクションとは、所有者や結末の如何ではなく、存在自体に意味があるものであり、ましてやそれに対峙する感情は、「一点の曇りもない晴れ渡った秋の空のようなものである」ことを、著者は悟らされたという。

猟犬とは、獲物の価値に忠実なのではなく、それを指図する主人の心にまっしぐらに脇目も振らず疾走するものなのだと改めて思い知らされる。



犬を看取る時、心が大きく揺さぶられるのは、その子がどんなに自分に一生をかけて寄り添ってきたかを思うからである。
それに対して自分は見合う十分な愛情をかけてやれたのか、この子にどれだけのことをしてやれたのか、その悔いを何度も問い直すからである。


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べべ、あなたの生涯をありがとう。






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