水戸、八月の光 [マイハーベスト]
凍てつくような寒さの中に、月がひと際美しい夜が続いた。
叔母が逝った。
5日前に病院の手続きをしに顔を見に行ったばかりだったのに。
年末に見舞った時は、ダジャレを言い、まだ車椅子で私と写真も撮れたのに、その時は白い枕の上の土気色の顔に愕然とした。
水戸近郊に住んで生涯独身を通した95歳の叔母には近くに身寄りが無く、最後の看取りの段階になって強がって生きてきた人生が周囲を混乱させた。
人生は誰かの手を煩わさなければ終われない。
叔母はそれに気付いていただろうか。
本人に既に意識と感情が無く、寄り添って看取りのタームをこなす家族がいない孤独を感じずにいられることが、唯一の救いのように思えた。
京都からやはり様子を見にきた従弟と取り留めも無い話しをしながら新宿で二人で飲み明かしている時に、叔母は甥と姪の邂逅に頷いたように一人で旅立っていた。
一人で生きた彼女の生涯は険しかったのだろうと思う。
ようやくそれも終わったのだ。
渡航日が迫り、築55年の実家の管理を委託しに行く。
両親が施設に入ってから6年、人の住まなくなった木造の古家は荒れた庭の中に佇んでおり、そこには見てきた叔母の死相と同じものが見える。
教職の合間に一人で家事をこなし立ち働いていた気丈な母の戦場はそのままだ。
私は冷蔵庫の前の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、調理をしている母の背中に取り留めも無くおしゃべりを浴びせかける。
母が振り向いて、「ほら、味見よ」と言って料理の一片を私の口に放り込んでくれる。
モノクロのフィルムが回りだす。
役目の終わったこの抜け殻をもまた看取る方法を、またこれから考えていかなくてはならないのだろう。
高速にのる前に、水戸インターのすぐ近くにある両親の墓へ足を運ぶ。
娘が高速を使って墓参りに来ることを予想して建てたかのような簡素な墓に、60年近く添い遂げた両親はひっそりと眠っている。
石の下にあるこの二つの骨壺を思う時だけ、小さな安堵感を覚える。
二人はもう笑い合うことも無い代わり、悲しむことも苦しむことも無い。
また帰りに迎えにくる からねと、幼稚園児の頭を撫でるように、墓石を撫でて帰路につく。
父が亡くなるまでは現在進行形だった故郷が昨年2月に急に過去形になり、訪れる目的はすべて昔を掘り起こす作業ばかりになる。
後ろ向きな疲労が身体に蓄積されていく。
時間を緻密に自由に行き来させた秀逸なアメリカ小説を読む。
「八月の光」(ウィリアム・フォークナー/加島祥造訳/新潮文庫)
ウィリアム・フォークナー(1897〜1962)は、一貫して自分の生まれ育ったアメリカ南部地方から革新的な文学手法と南部独特の人種観を問い続けた1950年ノーベル文学賞受賞作家である。
ある地域を特化して創作する作家の先駆者で、ガルシア=マルケスらが影響を受けたと言われている。
「八月の光」はその彼の著書群の中でも筆頭に上げられる長編で、日本人のセンサーの最も鈍い人種、宗教、銃社会といった部分を、淡々と、しかし確実な客観性をもって知的な筆で描き切っている。
臨月の身で、自分を身籠らせて捨てた男との生活を夢見てアラバマからミシシッピまで一人で道を辿る白人のリーナが、まずこの本の扉を開ける。
貧しく不遇でも、彼女は決して恨まず、怖がらず、欲しがらず、穏やかに道行きで出会う人びとと関わっていく。
彼女の周りでは様々な人生が展開され、剣呑な事件が起こるが、リーナは淡々と目的に近づいていくことだけを望み、やがて純朴な男バイロンに助けられて子を産む。
彼女を取り巻く社会は、土地柄時代柄人種問題が根強く蔓延り、登場人物も起こる事件も、そのどちら側に属するかという観点が大きく行く末を左右する。
白いなら白い方へ、黒いならさらに黒い方へ。
白と黒が混じり合うことは決して無く、どの人生もその段差を基にして展開していく。
唯一同じ神を信仰するキリスト教だけが両側の共通項であるはずだが、調整をすべき牧師のハイタワー自身も人生の敗者であり、大役は果たせない。
聖母マリアに影が重なるリーナは間違いなく主人公の一人だろうが、その他の登場人物も聖書中の人物を彷彿とさせる。
黒人の血が混じりながらも容姿が白人であり、どちらにも属することが出来ず罪に溺れて白人の銃に倒れるクリスマスはキリストだとする評価もあり、すぐ側で展開しながらこの二人の人生は決して交わらない。
この辺りの構成は他に類を見ない絶妙さがある。
登場人物達はストーリーに組み込まれて出現した後に出自が語られるため、筋書きはしばしば時間を逆戻りし、流れるように進行するというわけではない。
また描写が非常に詳細でしかも情緒に満ちているため、読み手は一人一人の人生に惹き込まれ、全てのキャストが主要人物であるとさえ思い入れてしまう。
しかしその緻密に考えられた著者の構成はそこの困難さを感じさず、本筋は息を呑む展開の連続で一貫しており、読み手は指標を失うこと無くまたストーリーの路線に戻って先を目指すことができる。
フォークナーの文学手法は、この「八月の光」に集約され成功しているといっても過言ではあるまい。
翻訳も日本語としての質が高度でかつ繊細、共感を呼ぶ。
タイトル「八月の光(LIGHT IN AUGUST)」はフォークナーのこだわった故郷ミシシッピの八月に何日かある、光に満ちた日々から。
原罪を思わせるやりきれない混沌に満ちた世界を描きながら、一筋の希望の明かりで本著を読み切ることができるのは、著者の思いを込めたこの光の存在故であろうとも思う。
トランプのアメリカ・ファーストに揺れる今日、また本が導かれてきたと思う。
叔母が逝った。
5日前に病院の手続きをしに顔を見に行ったばかりだったのに。
年末に見舞った時は、ダジャレを言い、まだ車椅子で私と写真も撮れたのに、その時は白い枕の上の土気色の顔に愕然とした。
水戸近郊に住んで生涯独身を通した95歳の叔母には近くに身寄りが無く、最後の看取りの段階になって強がって生きてきた人生が周囲を混乱させた。
人生は誰かの手を煩わさなければ終われない。
叔母はそれに気付いていただろうか。
本人に既に意識と感情が無く、寄り添って看取りのタームをこなす家族がいない孤独を感じずにいられることが、唯一の救いのように思えた。
京都からやはり様子を見にきた従弟と取り留めも無い話しをしながら新宿で二人で飲み明かしている時に、叔母は甥と姪の邂逅に頷いたように一人で旅立っていた。
一人で生きた彼女の生涯は険しかったのだろうと思う。
ようやくそれも終わったのだ。
渡航日が迫り、築55年の実家の管理を委託しに行く。
両親が施設に入ってから6年、人の住まなくなった木造の古家は荒れた庭の中に佇んでおり、そこには見てきた叔母の死相と同じものが見える。
教職の合間に一人で家事をこなし立ち働いていた気丈な母の戦場はそのままだ。
私は冷蔵庫の前の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、調理をしている母の背中に取り留めも無くおしゃべりを浴びせかける。
母が振り向いて、「ほら、味見よ」と言って料理の一片を私の口に放り込んでくれる。
モノクロのフィルムが回りだす。
役目の終わったこの抜け殻をもまた看取る方法を、またこれから考えていかなくてはならないのだろう。
高速にのる前に、水戸インターのすぐ近くにある両親の墓へ足を運ぶ。
娘が高速を使って墓参りに来ることを予想して建てたかのような簡素な墓に、60年近く添い遂げた両親はひっそりと眠っている。
石の下にあるこの二つの骨壺を思う時だけ、小さな安堵感を覚える。
二人はもう笑い合うことも無い代わり、悲しむことも苦しむことも無い。
また帰りに迎えにくる からねと、幼稚園児の頭を撫でるように、墓石を撫でて帰路につく。
父が亡くなるまでは現在進行形だった故郷が昨年2月に急に過去形になり、訪れる目的はすべて昔を掘り起こす作業ばかりになる。
後ろ向きな疲労が身体に蓄積されていく。
時間を緻密に自由に行き来させた秀逸なアメリカ小説を読む。
「八月の光」(ウィリアム・フォークナー/加島祥造訳/新潮文庫)
ウィリアム・フォークナー(1897〜1962)は、一貫して自分の生まれ育ったアメリカ南部地方から革新的な文学手法と南部独特の人種観を問い続けた1950年ノーベル文学賞受賞作家である。
ある地域を特化して創作する作家の先駆者で、ガルシア=マルケスらが影響を受けたと言われている。
「八月の光」はその彼の著書群の中でも筆頭に上げられる長編で、日本人のセンサーの最も鈍い人種、宗教、銃社会といった部分を、淡々と、しかし確実な客観性をもって知的な筆で描き切っている。
臨月の身で、自分を身籠らせて捨てた男との生活を夢見てアラバマからミシシッピまで一人で道を辿る白人のリーナが、まずこの本の扉を開ける。
貧しく不遇でも、彼女は決して恨まず、怖がらず、欲しがらず、穏やかに道行きで出会う人びとと関わっていく。
彼女の周りでは様々な人生が展開され、剣呑な事件が起こるが、リーナは淡々と目的に近づいていくことだけを望み、やがて純朴な男バイロンに助けられて子を産む。
彼女を取り巻く社会は、土地柄時代柄人種問題が根強く蔓延り、登場人物も起こる事件も、そのどちら側に属するかという観点が大きく行く末を左右する。
白いなら白い方へ、黒いならさらに黒い方へ。
白と黒が混じり合うことは決して無く、どの人生もその段差を基にして展開していく。
唯一同じ神を信仰するキリスト教だけが両側の共通項であるはずだが、調整をすべき牧師のハイタワー自身も人生の敗者であり、大役は果たせない。
聖母マリアに影が重なるリーナは間違いなく主人公の一人だろうが、その他の登場人物も聖書中の人物を彷彿とさせる。
黒人の血が混じりながらも容姿が白人であり、どちらにも属することが出来ず罪に溺れて白人の銃に倒れるクリスマスはキリストだとする評価もあり、すぐ側で展開しながらこの二人の人生は決して交わらない。
この辺りの構成は他に類を見ない絶妙さがある。
登場人物達はストーリーに組み込まれて出現した後に出自が語られるため、筋書きはしばしば時間を逆戻りし、流れるように進行するというわけではない。
また描写が非常に詳細でしかも情緒に満ちているため、読み手は一人一人の人生に惹き込まれ、全てのキャストが主要人物であるとさえ思い入れてしまう。
しかしその緻密に考えられた著者の構成はそこの困難さを感じさず、本筋は息を呑む展開の連続で一貫しており、読み手は指標を失うこと無くまたストーリーの路線に戻って先を目指すことができる。
フォークナーの文学手法は、この「八月の光」に集約され成功しているといっても過言ではあるまい。
翻訳も日本語としての質が高度でかつ繊細、共感を呼ぶ。
タイトル「八月の光(LIGHT IN AUGUST)」はフォークナーのこだわった故郷ミシシッピの八月に何日かある、光に満ちた日々から。
原罪を思わせるやりきれない混沌に満ちた世界を描きながら、一筋の希望の明かりで本著を読み切ることができるのは、著者の思いを込めたこの光の存在故であろうとも思う。
トランプのアメリカ・ファーストに揺れる今日、また本が導かれてきたと思う。
2017-01-21 09:49
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