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八丈島、「るにん」 [フレグランス・ストーリー]

当時、バスのような最終便のYS11が飛び立っていってしまうと、本土との連絡は明朝まで断たれて寂しかった。
その昔、ここへ流された流人たちは、これよりもっともっと心細い思いをしたのだろう。

八丈町立八丈島病院は、以前夫が所属していた医局の派遣病院だった。
産科は、医局から1~2週間交代で、若い医局員が入れ替わり立ち替わり勤務することになっていた。
我々家族も例外ではなく、2歳になったばかりの長男、生まれて半年の二男を抱いて、夏冬合わせて4,5回は島へ渡ったように思う。

にしじまクリニックを設計された團先生が、お父様である團伊久磨氏の別荘を改装したアトリエを八丈島に構え、趣味の釣りを楽しみ、そこで書き下ろされた小説「るにんせん」が奥田瑛二監督・松坂慶子主演で東京国際映画祭のコンペティション部門で上映される、と聞いた時は、懐かしさと偶然さが入り混じった気持ちで観させていただいた。

そんな島からいらしたクライアントさんは、おおらかでゆったりとした笑顔にこちらが包まれるような懐の深さを思わせる方だった。
看護師である彼女は、青年協力隊に入り、2年間コートジボアールで医療活動に従事し、帰国後もあえて埼玉のご実家の近くではなく、へき地医療に取り組もうと八丈に渡ったと話してくれた。
そしてそこで縁あって結婚されたのだが、その義理のお姉様が切迫早産でヘリコプターで八丈から文京区の日本医大に搬送されたことがあり、それに付き添ったのが派遣時代の夫だった、という偶然も重なった。

新しい研修制度のもと、産科を志望する新しい医局員が確保できなくなった医局は、町立八丈島病院から派遣を引き上げ、夫の後輩が八丈に渡ることも無くなった。
1週間ごとに変わるドクターに診てもらうことになる島民の気持ちはどんなだっただろう。
それすらも確保がままならなくなるという不安。
派遣されれば、観光気分で息子たちをプールに入れたり、岸壁で釣りをした、当時の自分たちのお気楽さが悔やまれる。
逆に、八丈に自ら渡り、そこで結婚して根を下ろした彼女は、島の人たちにとっては白衣の天使以外の何者でもなかろう。

コートジボアールで、道ばたで産んでしまう人もいたという底辺のお産を見てきた彼女の目には、日本のこのお産の現場はどう映っているのだろう。
「るにん」に映し出された原始的で凄惨なお産のシーンを思い出す。

産科医師や研究者のたゆまぬ努力によって新生児の生存率が99%以上(周産期死亡率0.5%。夫の著書より)で世界一高いと言われる日本は、しかし、その生存の「あたりまえさ」ゆえに訴訟が起こりやすく、それに疲れて産科医が減少するという皮肉な結果を生んでいる。
彼女が話してくれたコートジボアールと同じように、日本もほんの100年前までは命がけの「るにん」のような出産が普通だったはずだ。
出産する女性の脇でまじないを唱え、薬草を燃やしたり抽出液を塗布したりする所作は、その昔西欧でも同じようなことが行われ、アロマテラピーの基礎となっているのである。

想像を絶する苦痛にあった時、まじないと薬草にしか頼ることができなかった原点を考えながら、恵まれた現代の日本の医療とともに歩むアロマテラピーの役割を真摯に果たしていきたいと心から願う。










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