自宅、美しき日本の残像 [マイハーベスト]
「なんでそんなにRockなんだよ?」
インストラクターのChrisはニヤニヤしながら言うけれど、50代後半に差し掛かって、ファッションの傾向が急にとんがってきたのは自分でも感じる。
コンサバじゃあよけい老けるし、到底ガーリーでもあるまいし、困窮する周囲の環境のせいで、ともすると萎えそうになる気持ちをハードな皮底ブーツでガンと蹴っ飛ばしてくれる勢いが今の自分に必要だってことだ。
ユニクロのウルトラストレッチジーンズをこの冬は3本買う。
一番小さい22サイズが体型にぴったり合い、バイカーブーツやハードなスタッズのついたブーツに合わせて毎日履くヘビーローテーションだ。
ユニクロ、欲しいものが分かってるって気がする。
問題はファッションの左傾化(ロックは左傾?)ではなく、ファストファッションが結果的にデフレの旗手となったことでもなく、なぜ自分の気持ちがデフレ傾向かってことである。
プライベートでは親とペットの介護で身動きが取れなくなり、仕事の面では特にクリニックの経営・人事については震災後ずっと問題が続き、私にとっては現場を離れて命の洗濯をしにいく海外旅行へはほぼ1年ご無沙汰である。
フツー、そんなものだよとおっしゃられるだろうが、それまでは年に4〜5回は異国を歩いていた身にすれば、これは「停滞」以外の何ものでもなく、まんじりともしない日々が続く。
そうすると熱心だった英会話の勉強も虚しくなり、現状から逃避したいという思いばかりが募って、QOLがデフレスパイラルに陥るのである。
しかしそんな時が逆に、今までおざなりにしていた「日本とは何か」を掘り下げるチャンスでもある。
手始めに、以前参加していたネット塾「松岡正剛の編集学校」で課題図書の中の一冊であった、アレックス・カーを読んでみる。
(当時私は別な本を選んだので未読である)
「美しき日本の残像」(アレックス・カー/朝日文庫)
アレックス・カーは、エール大学で日本学を修め、オクスフォード大で中国学を学び、日本に居住して日本語で著作するという、まぎれもない日本通のひとり、しかもかなり頂点まで行ってしまったアメリカ人である。
(日本語の著作を続けた後、英語での執筆を依頼された時には英語に自信が無くて翻訳を頼んでしまったというから相当なものだ)
私はこの本を読むまで、彼が庵を結んだ徳島県の祖谷(いや)という場所を知らなかったし、彼の解説する茶道や歌舞伎や書道の奥義も知らない。
なんという外国人だろうかと思う。
また、「6歳の時、僕はお城に住みたかった。」という書き出しで始まる簡潔で明るい日本語の文章は、日本人ならもっと装飾やひねりを加えて難解になるであろうデメリットを排除し、しかもですます調の丁寧な印象で、読む者を惹付けてやまない。
しかし読み進むうちに、「Lost Japan」という英題が示す通り、美しかった(外国人がこれぞ日本と思うような)原風景を、経済の発展の名の下に喪失し続けてきた日本への痛烈な批判のオンパレードに心が折れてくるのは私だけだろうか?
「もし、人類が宇宙に住む時代が来たら、その殺伐とした人工的な風景に嫌気がさして故郷に帰りたくなるであろう他の国の人々を差し置いて、日本人は気持ちよく暮らしていけるだろう。なぜなら宇宙の基地はアルミと蛍光灯の世界で、それは今の日本と全く同じだから」なんて、ちょっと皮肉がすぎるんじゃないか。
確かにこの点については同意する人たちも沢山いるだろうし、我々日本人が反省しなければならない大きな問題ではあるが、フクシマがあってさえ日本に住み続けなければならない我々にしてみれば、美しさを犠牲にしてもしてこなければならないこともあったはずだ。
かつてこの本を課題図書に選び、彼と親交があったらしい松岡正剛も、千夜千冊では、「もう日本を見捨ててタイに行ってしまったらしい」と素っ気ない。
http://1000ya.isis.ne.jp/0221.html
この本から私が学んだことは、学校で擦り込まれる「日本には四季があって自然が美しい」という観念がこのような外国人から見れば一種のナショナリズムにも似た「日本教」でしかないこと、海外へばかり目を向けている自分こそが「Lost Japan」そのものではないだろうかという反省である。
2013-03-02 10:14
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