自宅、なぜ美術品は盗まれるのか [マイハーベスト]
「俺さ、一番好きなのはターナー」
え、それ私が言ったんじゃなかったっけ?
何かの拍子でぽろりとこぼれ落ちた次男の言葉は、19世紀ロマン主義絵画の巨匠ターナーを愛するがあまり、10年ほど前の初訪英では真っ先にテムズ川河畔のテート・ブリテンへ足を運んだ私をびっくりさせた。
自分の好きなものは当然家の中に氾濫するので、知らず知らずのうちに息子たちが同じ傾向のものを愛するようになるっていうのはあり得る。
当時自分が夢中でやっていたテニスに長男がのめり込み、次男が医学とは別の芸術系の方面に進みたがるのを、内心しめしめとほくそ笑んでもいた。
こうやって、ちょこりちょこりと自分の痕跡を息子達の人生の中に残しておくのも、子育ての醍醐味なんではなかろうか。
ターナーに関しては無論実物(後で触れる評価額参照)が家に存在するわけもなく、画集も1,2冊がひっそりと本棚に棲息しているだけなので、彼らの目に触れたとは考えにくい。
なのに、10年以上別々に暮らし始めてから、唐突に同じ画家とはなあ。
私、どっかでターナーだったかしら。
「美術品はなぜ盗まれるのか」(サンディ・ネアン著/中山ゆかり訳/白水社)
1994年、テート・ブリテンがフランクフルトのシルン美術館に貸し出し中の、19世紀英国絵画の巨匠ターナーの後期代表作2点が盗まれる。
本著は、2000年にそのうちの1点を、2002年にもう1点を取り戻したテートの学芸員が静かに語る捜索の一部始終と、著者がその事実をもとに考察した美術館の使命、倫理観論の二部構成からなる興味深いものである。
名画の強奪事件と言えば、しばしばスキャンダラスで面白おかしい映画やドラマの恰好の材料となる。
それは著者も書いているように、美術品窃盗は「贅沢な」犯罪と見なされ、児童虐待や殺人、テロに比べればシリアス度数が一般論では低いからである。
しかし、世界に1点しか無い、しかも「盗まれました」と大々的に報じられている絵画を盗んでも売り払うことなど身が危うくて決して出来ないのに、なぜ、名画の盗難事件は後を絶たないのだろう。
まさか犯人が自分で眺めて悦に入るためではないだろう。
というわけで、その疑問に本著がずばり答えてくれる。
犯人の目当ては、美術館が作品を取り戻すために出す巨額の「身代金」である。
もちろん身代金の支払いは、犯罪組織を付け上がらせ、同様の犯罪を誘発することになるので、厳しく禁じられている。
しかし、ターナー盗難事件の特殊な点は、保険会社から支払われた2400万ポンド(約37億円!!保険会社も大変です・・・)という巨額の保険金の一部を、ちょっと複雑な協定によってテートの自己裁量によって使えるようになったことから、ドイツの情報提供者に1000マルク(約5億円)を支払い、絵画の奪還にこぎ着けたことである。
当時、建設を検討されていたテート・モダンの開館資金にも保険金の一部をちゃっかり充ててしまったというから、うーむ、テートなかなかやるなって感じである。
読み進むうえでは、この絵画を巡る複雑な金銭のやり取りが、ポンドやマルクや米ドルでガンガン出てくるので、すぐに財布の中身が分からなくなる私は往生し、遂には円に換算したメモをいちいち記しながら読む羽目になった。
この提示され、あるいは実際に支払われた金額こそが、「なぜ美術品は盗まれるのか」を明白に語るカギだからだ。
こう書くと、なにやらお金にまみれた生臭いストーリー展開を想像されるだろうが、そこは格調高い学芸員の語り口がもの静かで品を失わない。
巨額の金の行き来の中で、彼らが何としてでも絵画を取り戻したいという使命に燃え、悩み、犯罪に苦しみながら、気の長い交渉に取り組んでいく姿が印象深い。
二部の彼の美術考証がさらに視点を高みに引き上げる。
2点で37億円とは、一般庶民には想像もつかない値段であるが、画家自身が代表作やスケッチをまとめて寄贈したというテート・ブリテンのターナー・コレクションはそれは見事で、案内してくれたロンドン在住のリンと数時間堪能したのを、まるで昨日のことのように思い出す。
一歩間違えば、犯罪組織の巨額資金ともなり得る美術品を保有する立場から、表に出にくい窃盗犯罪の交渉や構造を世に出すことによって、美術館の役割やモラルを問いかけようとした著者の目的は果たされたように思う。
読みながら、なぜ次男があの日唐突にターナーへ言及したのか、私の意識はそこへ行きつ戻りつしたのだけれども。
祝・クルム伊達公子、ウィンブルドン2回戦突破。
え、それ私が言ったんじゃなかったっけ?
何かの拍子でぽろりとこぼれ落ちた次男の言葉は、19世紀ロマン主義絵画の巨匠ターナーを愛するがあまり、10年ほど前の初訪英では真っ先にテムズ川河畔のテート・ブリテンへ足を運んだ私をびっくりさせた。
自分の好きなものは当然家の中に氾濫するので、知らず知らずのうちに息子たちが同じ傾向のものを愛するようになるっていうのはあり得る。
当時自分が夢中でやっていたテニスに長男がのめり込み、次男が医学とは別の芸術系の方面に進みたがるのを、内心しめしめとほくそ笑んでもいた。
こうやって、ちょこりちょこりと自分の痕跡を息子達の人生の中に残しておくのも、子育ての醍醐味なんではなかろうか。
ターナーに関しては無論実物(後で触れる評価額参照)が家に存在するわけもなく、画集も1,2冊がひっそりと本棚に棲息しているだけなので、彼らの目に触れたとは考えにくい。
なのに、10年以上別々に暮らし始めてから、唐突に同じ画家とはなあ。
私、どっかでターナーだったかしら。
「美術品はなぜ盗まれるのか」(サンディ・ネアン著/中山ゆかり訳/白水社)
1994年、テート・ブリテンがフランクフルトのシルン美術館に貸し出し中の、19世紀英国絵画の巨匠ターナーの後期代表作2点が盗まれる。
本著は、2000年にそのうちの1点を、2002年にもう1点を取り戻したテートの学芸員が静かに語る捜索の一部始終と、著者がその事実をもとに考察した美術館の使命、倫理観論の二部構成からなる興味深いものである。
名画の強奪事件と言えば、しばしばスキャンダラスで面白おかしい映画やドラマの恰好の材料となる。
それは著者も書いているように、美術品窃盗は「贅沢な」犯罪と見なされ、児童虐待や殺人、テロに比べればシリアス度数が一般論では低いからである。
しかし、世界に1点しか無い、しかも「盗まれました」と大々的に報じられている絵画を盗んでも売り払うことなど身が危うくて決して出来ないのに、なぜ、名画の盗難事件は後を絶たないのだろう。
まさか犯人が自分で眺めて悦に入るためではないだろう。
というわけで、その疑問に本著がずばり答えてくれる。
犯人の目当ては、美術館が作品を取り戻すために出す巨額の「身代金」である。
もちろん身代金の支払いは、犯罪組織を付け上がらせ、同様の犯罪を誘発することになるので、厳しく禁じられている。
しかし、ターナー盗難事件の特殊な点は、保険会社から支払われた2400万ポンド(約37億円!!保険会社も大変です・・・)という巨額の保険金の一部を、ちょっと複雑な協定によってテートの自己裁量によって使えるようになったことから、ドイツの情報提供者に1000マルク(約5億円)を支払い、絵画の奪還にこぎ着けたことである。
当時、建設を検討されていたテート・モダンの開館資金にも保険金の一部をちゃっかり充ててしまったというから、うーむ、テートなかなかやるなって感じである。
読み進むうえでは、この絵画を巡る複雑な金銭のやり取りが、ポンドやマルクや米ドルでガンガン出てくるので、すぐに財布の中身が分からなくなる私は往生し、遂には円に換算したメモをいちいち記しながら読む羽目になった。
この提示され、あるいは実際に支払われた金額こそが、「なぜ美術品は盗まれるのか」を明白に語るカギだからだ。
こう書くと、なにやらお金にまみれた生臭いストーリー展開を想像されるだろうが、そこは格調高い学芸員の語り口がもの静かで品を失わない。
巨額の金の行き来の中で、彼らが何としてでも絵画を取り戻したいという使命に燃え、悩み、犯罪に苦しみながら、気の長い交渉に取り組んでいく姿が印象深い。
二部の彼の美術考証がさらに視点を高みに引き上げる。
2点で37億円とは、一般庶民には想像もつかない値段であるが、画家自身が代表作やスケッチをまとめて寄贈したというテート・ブリテンのターナー・コレクションはそれは見事で、案内してくれたロンドン在住のリンと数時間堪能したのを、まるで昨日のことのように思い出す。
一歩間違えば、犯罪組織の巨額資金ともなり得る美術品を保有する立場から、表に出にくい窃盗犯罪の交渉や構造を世に出すことによって、美術館の役割やモラルを問いかけようとした著者の目的は果たされたように思う。
読みながら、なぜ次男があの日唐突にターナーへ言及したのか、私の意識はそこへ行きつ戻りつしたのだけれども。
祝・クルム伊達公子、ウィンブルドン2回戦突破。
2013-06-28 17:28
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コメント(2)
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オレはターナーの汽関車が好きだけど。
by s (2013-06-29 12:30)
おー、山下達郎。これも母親の影響ってことでいいですよね?
by mana (2013-06-29 19:37)