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ふじみ野、東京オリンピック [フレグランス・ストーリー]

2020年のオリンピック開催地に東京が決まった。

昨日日本中がそのニュースに踊った。


一枚の写真がある。

IMG_8087.JPG
父の書いた漢数字は一九五七とある。
1964年東京オリンピックのまさに同じ7年前だ。

キャラクターなどどこにもついていない粗末な衣服ながら、子供たちは一様にまるまるとして幸せそうだ。
真ん中で破顔一笑している1歳の私には知る由もないが、みんながバラ色の未来をを信じて疑わず、同じ方へ努力前進していた時代だったのだろうと想像する。

戦後わずか12年しかたっておらず、アジア初のオリンピック開催は(その当時決まっていたとすれば)それはまたもやみんなが同じ方向へ突き進む大きな座標ともなったことだろう。

日本はこんなふうだった。


オリンピック開催の年(かその前年)。
政府関係の父の知人が、(たぶん開通間近の)首都高速環状線を専用車で走って見せてくれた。

小学校に入ったばかりの私には車の窓からは空しか見えず、ちっともおもしろくないドライブだったが、父がしきりに感動していたことを思い出す。

宙に浮いて東京を一回りできる信号の無い道路は、夢の金色のリングのように当時の人には思えたことだろう。
地方の人を乗せて首都高を一回りするのは、超レアな一種のおもてなしアトラクションだったのかもしれない。

IMG_1926.jpg
(またこの写真使います・・・)
当時は全く予想されていなかったであろう重量と渋滞を支え続けてきた今日の首都高は痛々しい。


IMG_8076.JPG
つつがなく7年後まで生きたとして、今の50歳~90歳くらいまでの日本人が生涯で2回東京オリンピックを経験するわけだが、当時夫は8歳、私は7歳だったから、我々は意味が分かってさきの東京オリンピックを楽しんだ一番年下の世代とも言えるだろう。

誰もが同じ方向へ前進していたあの頃とは違い、日本はすでに老成し、持続可能性を模索する下降線の半ばにあり、「(オリンピック招致は)どこか遠い国の話しのようです」という福島の人々の言葉の通り、人々の向く方向は今それぞれに違う。

福島の人々の言葉を胸に刻み、原発事故とその後の汚染という負債を背負った国として、また老化の一途をたどり始めた成熟しきった国として、開催にどのような意義を持たせることができるかを考えつつ、我々はこれからの準備期間を過ごしていかなければならないのだと思う。




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