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有楽町線、括弧の意味論 [マイハーベスト]

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毎度都内での用事を済ませた後、Pとのレッスンを終えて家路につく最初の駅、九段下はこんな感じである。
iPhoneの感度がイマイチでお化けが出そうな風景だが、本当はうっすらと雨の名残が武道館の前のお濠に映り込み、遠景の丸の内も紗がかかったようでとっても綺麗だったのである。

その後、東西線、有楽町線、東武東上線と乗り継いで帰る約1時間半が私の大切な読書タイムである。

Pからのミッションでハリーポッター英語版に取り組んではや2週間。
まだ3分の1ほどしか読めていないのは、こういう読書タイムはやっぱり日本語の本が読みたいので、加えて衆人の中でペーパーバックってちょっとどうよ?という抵抗もあり、ハリーポッターは夜寝る前にベッドの中で読むだけだからである。
そしてベッドの中での英語本はラヴェンダーにも勝る入眠作用があり、30分も読まないうちに頭の中に重いカーテンがするすると下りてしまうのである・・・・

それはさておき、電車の中や日曜の午後などを繋ぎ合せつつ読む日本の本の方は、興が乗るとぐいぐい進んでしまい、まるで美味しいお酒のようである。

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『括弧の意味論』(木村大治著/NTT出版)

文章を書く際に、括弧(かっこ)を多用した後で味わう、何となく後ろめたい思い。
ずっと知りたいと思っていたその気持ちの理由(わけ)を探しに、本著の森へ分け入る。

そこは、文学や哲学のばりばり文系の話かと思いきや、コンピューターのプログラミングから数学まで駆使する、いや、たかが(と言っては失礼だが・・とまた括弧を使ってしまう)小さな記号の存在にこんなに真剣に取り組む人がいるんだなと感動すら覚えてしまう混迷の森である。

「眠れる森の美女」で、眠っているのは美女なのか森なのか。
つまり「『眠れる森』の美女」なのか、「眠れる『森の美女』」なのかという議論がまずあり、この文の構成要素同士の関係を明らかにする括弧を、著者名付けて統語論的括弧。
会話や引用につけられる括弧などもすべてこのカテゴリーである。

さらに著者の興味のほとんどはそれ以外の意味論的括弧の分析に向けられているし、私が後ろめたさに似た感情を持つのも多分後者である。

後者が前者と違うのは、括弧が無くてもおおよその意味は変わらないということである。

例えば今そばにあるガイドブックの見出しは、
心ゆくまで「フラ」を楽しむ旅
であるが、これが、
心ゆくまでフラを楽しむ旅
でも大意は変わらない訳である。

しかし、フラはただ旅行のついでに見物して楽しむように、「フラ」はもっと踏み込んで踊りに行くような気配を感じるのは私だけであろうか?
つまり括弧で括ったが故に「フラ」が単純に客席から観るものではなく、踊ったり、専門グッズを買ったりと、読み手にいろいろな目的を持たせるように一人歩きし始める。

多分このガイドブックを手にする人は、単純にハワイでフラを見ようと思っている人ではなく、中途半端な私以上に少なからず「フラ」に興味がある人だろう。
この旅でガイドするのは「あなたの目指しているフラ」で、一般的なガイドというコンテクストから意味論的括弧によって意図的にはじき出されているわけである。


何が一番面白いって、この小さな記号を文章から拾い上げ、ニュアンス論で片づけられそうなこの問題を、理系的に積み上げたデータで解き明かすという過程が白眉である本著を、こんなやわな「フラ」の例でまとめるのもどうかと思うから、是非一読をお勧めする。

私が書く時に感じる一種の後ろめたさは、「これは私の言葉や常識ではない、読み手の方の想像に任せます」というエクスキューズを多用し過ぎることによって、文章を書いた責任からちょっと逃れようとする自分をそこに発見してしまうからなのだと思う。

著者も最後でこう締めくくっている。

「ご利用は計画的に。」



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