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自宅、犠牲(サクリファイス)〜わが息子・脳死の11日〜 [マイハーベスト]

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完璧に冷房病である。

軽井沢で3週間、自然な気温に身を任せていたので、24時間冷房漬けの生活が堪える。
足下が冷たく、肌がかさかさになり、29℃に設定してもパーカを着込まなければ寒くて仕方が無い。

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冷房を切ればいいのだろうが、厚き被毛に覆われたミナサン(トイプー3匹)のためにそれができない。
身体が酸化してぼろぼろになりそうなので、ハニービネガーを熱々のお湯で割り、ひたすら飲む。

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さて、母が逝ったこの夏、身内を失った人たちが書いた本を何冊か読んだ。

多いのは伴侶、特に妻に先立たれた手記で、愛憎を含め感情が迸る。
また親の死は、順序としての正しさ、寿命という考え方、本人の人生の達成度によって折り合いを付けられるところに救いがある。
しかし、どんな知力をもってしても、どんな理屈をもってしても、納得も表現もエクスキューズもかなわないのが子供との別離である。

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「犠牲(サクリファイス)〜わが息子・脳死の11日〜」(柳田邦男/文春文庫)

大方の本と本著が際立って異なるのは、自死を選んだ息子の死に際を凝視し、記録し、ノンフィクション作家である筆者なりの結論を導き出すというあまりにも冷静すぎる過程を経て、我が子との別離に折り合いをつけている点である。

そして突然前触れも無く旅立ってしまった母とも決定的に違うのは、生と死の狭間にある脳死という「時間」が残される者に与えられたことである。

脳死が是か非か、臓器移植医療のために無理矢理作られた定義かどうかという議論に対しては意見を言う立場に無い。

表題の訳「sacrifice」は、切望する願いを聞き入れてもらうために身を捧げる「生け贄」のことであり、筆者は、息子の死とその臓器提供というサクリファイスによって、生前心を病んで社会の役に立てないことに絶望していた次男が救われるのだという結論に、脳死という時間を使って到達する。

それはとりもなおさず、すでに意識の無い次男が救われるのではなく、残された筆者や家族がそう思う事によって、自分たち自身が救われるために導き出された論理であることに気付かなければならない。

私が読んできた本は、方法こそ違え、すべて「二人称の死」(一人称の死は自分の死、三人称の死は第三者の死、一番辛いのが二人称の親、子供の死だと筆者は位置づけている)を自分が受け入れるためのあまりにも遠く、困難な道のりの軌跡である。

文学、宗教、哲学、科学など、人間が生み出したあらゆる論理は、愛する者との抗えない死という別れを正当化し、自分をねじ伏せて納得させるために存在するのだとさえ思えてくる。



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