自宅、ジヴェルニーの食卓 [マイハーベスト]
秋雨前線の停滞でものすごい雨の日曜となる。
伊豆大島はどうなったか、と思う。
夫にもらった喉の痛みが癒えぬまま、昨日は聖心の英会話と、はるか限界を超えて人前には出られないほどになった髪とツメのお手入れに外出を敢行する。
大のブーツ好きの私へ、長男からクロムハーツのブーツオーダー会なるものの情報が寄せられていたが、ン十万円のブーツってそりゃ土禁だろ、っていうわけで、美容院の帰りに可愛くUGGのバイカーブーツを買うことでコトを収める。
奥のジミーチュウは、去年買って雨だろうが雪だろうが旅行だろうが構わず履き倒したら、つま先の革がすり減って雨水が入ってくるようになってしまった。
ジミーチュウがヘビーユースだったのは、ドラムの先生に「ハイハットが安定しないのは靴のせいじゃないですかね」と、暗にチャラチャラした靴を履いてくんなと注意され、試行錯誤の末、もちろん一番いいのはスニーカー、でもスニーカーじゃおしゃれが完結しない場合(私の場合ほとんど完結しない)、次にペダルがぶれないのはバイカーブーツ(ロングブーツはダメ)と自分で定義したからである。
どのブランドのブーツも最小サイズは35(23.0センチ)くらいだが、UGGは22.0センチがあり、しかも中はブランド・アイデンティティのムートンで覆われているので、極小サイズの足に吸い付くようである。
靴フェチとドラムは両立しないもんだ。
この秋のためにと新調した華奢なハイヒールなんてまだ箱から出してもいない。
でもその隙間をぬって私らしさの演出、頑張る。
さてさて話しがそれたが、雨で日曜で風邪気味、しかも明日は税務調査(!)、とくれば、今日は一日Stay home!と言い渡されたようなもんである。
ゆっくり7時に起き、葛根湯を飲んでパンを齧る朝食を済ませ、また本を持ってごそごそとミナサンと共にソファーのブランケットの中にもぐり込む。
ちょっと旅関係の本ばかり読んでいたので、違う路線を、と選んだつもりが、結局昔の旅を思い出して読後感を書く結果となる。
「ジヴェルニーの食卓」(原田マハ/集英社)
ヴァンスの聖堂にからめてマチスとピカソの交流が、お側仕えの少女の視線で描かれる「うつくしい墓」。
14歳の小さな踊り子の彫像に寄せるドガの思いを、印象派をアメリカに紹介したメアリー・カサットの目で綴る「エトワール」。
同名のゴッホの名画の主役の人生を通して、セザンヌの不遇の時代を著した「タンギー爺さん」。
そして、印象派の旗手モネの義理の娘が家族と周囲を描く「ジェヴルニーの食卓」の4部作。
フランスの印象派の画家たちの周辺を描いた4つの物語たちは、あまりにも美しく仕上がっていて、正直なところフィクションなのか事実なのか私にはその境界線が見えない。
著者はニューヨーク近代美術館勤務の経験もあるキュレーターなので、多くの文献から限りなく事実に近い独自の世界を編んだのだろうと思う。
4つの作品に共通するのは、従来の写実主義や窮屈なパトロン態勢の画壇から、自由な表現と人生を獲得するために羽ばたいていこうとする印象派の画家たちが、その人生のどこかで彼らを強烈に応援する一人の脇役の目を通して描かれている点である。
オルセーやメトロポリタンで観たチュチュを纏った踊り子の像や、次男とはるばるバスに乗って観に行ったヴァンスの聖堂、マルモッタンのモネの睡蓮。
その時何気なく観て、でも自分の中では結構強く心に焼き付いた作品たちが、本著を通して、何かぱちっと事実や時代と焦点が合ったような気がする。
過去のブログにかろうじて残っていた記事を記しておく。
http://patchouli.blog.so-net.ne.jp/2013-04-23
http://patchouli.blog.so-net.ne.jp/2008-07-08
(私も次男も若い!)
その時、自分がどんなに曖昧に鑑賞していたかが分かって、結構可笑しかったりする。
今や日本では確固たる地位を獲得したかに見える印象派が、あのウィーンの分離派のように、酷評や不遇を浴びせられて旧体制を踏み越えて行く過程に存在した、視線の主の擁護者の影が心を温めてくれる。
2013-10-20 14:58
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