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水戸、忘れられた巨人 [マイハーベスト]

誕生日 ろうそく吹いて 立ちくらみ

起きたけど 寝るまで特に 用も無し

手を動かしながら、隣のテーブルを囲んでお年寄りたちが興じるカルタ読みの声に、思わずクスリ、とする。



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月に一度、父がお世話になっている老人ホームの入所者の方々に、父を見舞った後2時間ほどハンドマッサージをしている。

毎月行っているので、私の方はお顔馴染みの方が多いが、お年寄りの方からはだいたい「初めまして」な反応を返される。

おばあちゃまたちは、例外無く、きれいな指輪や腕時計をしたご自分のシワやシミのある手を「出すのが恥ずかしい」とおっしゃり、私のアクセサリーやネイルにとても興味を示される。
おじいちゃまは少なく、総じて女性の方がコミュニティー能力が高く、新しいことに積極的なのは、こういう時にも如実に現れる。

そのマッサージをしている傍らで、一人のヘルパーさんの解説付きで、おばあちゃまたちがこの「シルバー川柳カルタ」に興じているんである。
耳が不自由な方が多く、読み上げる方も取る方も大声なので余計にコミカルさが募る。
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(全国有料老人ホーム協会 ポプラ社編集部)

手をつなぐ 昔はデート 今介護

これ、全国のシルバー世代の方々から投稿された川柳の作品集があまりにも大ウケしたのでカルタにしたそうだが、実際に老人施設でお年寄りが興じているのを見ると、かなりブラックジョークっぽくて、笑っていいのかどうかすごく迷うシチュエーションである。

LED 使い切るまで ない命

ここで、「LEDの電球って、10年もつって言われてますからね〜」とヘルパーさんの解説。

傍で聞いている私は「その解説必要?」とドキッとするが、おばあちゃんたちは「あ〜、そんならアタシが先だわ」とケラケラ笑う。
驚くほど屈託が無く、肩の力が抜けた受け止め方は、人生への達観ゆえか。

一緒にエアコンを買いに行った時、「これは10年間お掃除不要です」と言った店員さんに、「こっちは10年も生きてないわ!」と言い放った元気な頃の父を思い出す。

その父もここで母を見送り、自らは車いす生活となり、入居生活も5年を超えた。
時々ボケるが、晩酌もし、食欲も旺盛。
私の顔を見ると開口一番「うまいもの、持って来たか」

今日はアベノミクスの危険度について、熱く娘の私に語る。
「最後に生き残るのは農業だぞ。オマエも庭になんか植えろ」
ハイハイと拝聴しておく。
エアコンを買いに行った日から、10年はとうに経っていると思うんだけど、父上様。

シルバー川柳カルタ、作ったのも遊ぶのもお年寄りなんだが、自分の老い様をこうやってユーモアで語れるような度量の広さが、寄り添う人達を、介護や老いという言葉の暗さから救ってくれる。

いいなあ。



ハンドマッサージをするようになってからもう2年近く。
その間、最初とてもお元気で、マッサージをしている間も楽しくおしゃべりをしていた方がだんだん記憶を遠くへ追いやっていかれる様子を、何人か目の当たりにしている。
寂しいし気持ちがしぼむが、仕方が無い。

それでも、こうやって世話をしてくださるヘルパーさんがちゃんといて、お仲間も居る平和な環境にいられるのだから、第三者から見れば長い人生を紡いできた末の穏やかな結実のように思える。



「私を離さないで」以来のカズオ・イシグロの10年ぶりの長編を読む。

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「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳/早川書房)

この人の切り口には、最初いつも手こずらされる。

今回は特に”記憶”がテーマで、登場人物の記憶が雌竜が吐き出す霧に覆い隠されて其々のバックグラウンドが見えないまま、アーサー王という日本人にはあまり馴染みが無い時代を背負ってストーリーが展開する。
ブリトン人の老夫婦が息子に会いに出掛ける危険な旅が、異人種サクソン人との対立構造の中で、半目の視界を通して進行していく。
よって読み手は五里霧中という言葉そのままのシチュエーションに、真っ逆さまに突き落とされる構図だ。

雰囲気は、ハリー・ポッターが悪霊と戦うようないかにもイギリスっぽい重々しい冒険物語風。

騎士、妖精、竜、修道院・・・
ゴシックっぽいファンタジー要素満載ながら、著者自身が「たんなるファンタジーではない」と語ったことで、一部の作家群からは「ファンタジーを見下した」と言われて、物議を醸した作品でもある。

読み手は二人の旅の先にあるものを必死で想像しながらねっとりとした霧を掻き分けつつ読み進み、思いがけない結末へ導かれていく。

すべての記憶を鮮明に浮き出たせることが果たして幸せなことなのか。

人には、思い出さない方が平穏でいられる記憶を覆い隠す霧が、本当は必要なのではないか。

人生の終末へ向かって人が次第に記憶を失くしていくことは、介護の現場を見ているとやりきれないことも多いが、ある意味本人にとっては幸せなことなのかも知れないと実感もする昨今。

困難の旅に出る主人公二人が、ハリーでもなく、勇者でもなく、不遇の老夫婦というところに、あるいは著者の意図も今私が感じているようなところにあるのだろうかと、あらぬ想像も掻き立てられる。

カズオ・イシグロ、毎回、深いなあ。







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