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ふじみ野、少年少女のための文学全集があったころ [マイハーベスト]

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朝布団から抜け出せずにいる。
昨夜着て出かけたワンピースはまだ夏の名残。
それを恨めしげに眺めている。

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冬が確実に両手を広げてやってくる。
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足首にぞわりと冷たさが忍び寄る夜に、レユニオンのバニラをつけ込んだ焼酎をお湯割りで飲んでみて一人悦に入る。
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温もりでバニラの香りが立ち上り、何ともクリスマス的なほっこりとした飲み物になっていたのは嬉しい予想ハズレ。
「百年の孤独」の黒木本店、「野うさぎの走り」という名もジビエっぽくて、焼酎のみならずネーミングのセンスが抜群だ。

ちなみに「バニラなんか浸けたら酒が甘くなるじゃねえか」と辛党諸君からのご指摘多数。
心配無用、バニラに甘味成分は無いのです。

鞘の中にはバニラビーンズがぎっしり。
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久しぶりにプリンでも・・・



1年前のハロウィンの朝に逝ったべべを偲んでいるうちに11月に暦が変わり、明日5日はガイ・フォークスデー。

Guy Fawkesは1605年11月5日、イギリス国会の開会式にジェームス1世や閣僚達を爆死させようと議事堂の地下室に大量の火薬を持ち込んだ歴史上の人物(直前に発覚して処刑された)。
当初はその陰謀の恐ろしさを忘れないようにとの集会だったらしいが、後世大量の花火を打ち上げて夜空を楽しむお祭りになったという謂れが、何ともブラックジョーク的でイギリスらしい。

そのお祭り花火のきらめき落ちる火花と共に、空からメアリー・ポピンズはバンクス家に再び戻ってくる。
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「とびらをあけるメアリー・ポピンズ」(P.L.トラヴァース著/林容吉訳/岩波書店)

その日、バンクス家では「花火を子ども達に上げてやって」と懇願する夫人を振り切って、不機嫌なバンクス氏は「No rockets for me!」とわめきながら出て行ってしまう。
(原文ではバンクス氏の子どもっぽさがよく分かる・・笑)
fireworksじゃなくてrocketsなので、個人で打ち上げられる花火なんだろうと思う。

仕方なく子ども達が煙突掃除人と打ち上げたrocketsの火花の中からメアリー・ポピンズが降ってくる・・
なんと幻想的なプロローグ。

私はこの挿絵を飽きもせずに眺めながら、日本には無いガイ・フォークスのお祭りと辛口ナニー、メアリー・ポピンズへの思いを、小学校に入ったばかりの心の中に広げていったものである。



朱色の布表紙の岩波少年少女文学全集を読む前の世代向けに当時出版されていたこのカラフルな岩波書店の児童文学書シリーズで、私は自分の読書人生を決定する主人公にたくさん出会っている。

何年か前にこのブログでも紹介済みだが、中でもピッピは、ファンタジーの世界の限りない広さと、自分の想像を深める面白さを私に教えてくれた大切な「女の子」であった。
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「長くつ下のピッピ」」(リンドグレーン著/大塚勇三訳/岩波書店)

ピッピは読書の世界に大きく門戸を広げて私を迎え入れてくれ、本と共に大半を過ごした少女時代を紡ぎながら、私は大学で児童文学を迷わず専攻した。

そしてそこで勉強したファンタジーの要素や大人の文学との決定的な違いは、確かに自分の人生観形成に影響したと確信した記憶も濃い。



そんな主にイギリスの児童文学を取り上げて、翻訳のスタンスから受け止める印象を論じたエッセイがこれだ。
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「少年少女のための文学全集があったころ」(松村由利子/人文書院)

戦後自由になった出版界が活気づいて、人びとはむさぼるように本を求め、全集ブームが到来した。
そしてまた戦争という過ちを繰り返さないために情操教育という言葉が出現し、戦争中には与えることが出来なかった良書を子ども達に手渡すために、各出版社は古今東西の名作から選りすぐった文学を美しく造本して、少年少女文学全集も広く出版されるようになった。

今は孤立するという理由で疎まれる子供部屋という観念も、独立性を養うと言われて浸透し始め、そこには全集を収めた本棚があり、普及し始めたテレビ媒体の情報とはまったく違ったファンタジーの世界は子供部屋という空間に当時満ち満ちていたような気がする。

インターネットにつなげば映画でも本でも手軽に手に入れることができ、バーチャルでファンタジーを体験できる今の時代を否定するつもりは毛頭ないが、世を挙げて子供を美しい将来へ導いていこうという本気な風潮の中で子供時代を送れたことは幸せに思う。

ベッドの中で読む装丁本の重み、こっそり机の下でページをめくる密やかな音、いつまでも閉じて眺めていたかった表紙の美しい色彩、図書室で引っ張り出す本の行間に立ち上る埃の匂い・・・
五感で読む本が、その時代は確かに存在したのだった。

情操教育という大義名分を超えた時間を費やしたので、私の子ども時代の読書は、宿題やピアノをさぼって親の目を盗んで読むものだったから、少し後ろ暗い。
授業中にベンハーの戦車競争をこっそり机の下で読んでいた赤毛のアンも、きっと同じ気持ちだったろうと思う。
しかし、ピアノがさらえていなくてもそこに大切な一冊が存在したとすれば、それはでこぼこなブルグミュラーよりも価値のある時間だったと今は言い訳できる(笑)




そしてそういう子ども達が今大人になった時、海外の児童文学のエッセンスは間に翻訳という濾紙が挟まっていたことに気付き、自分が大切にしてきたイメージや思いがもしかしたら原文とはちょっと違っているのではないか、または今でもその挿絵を見ると翻訳文がスラスラと出てくるほど馴染んだ文章はもっと違った意味があったのではないか、と、それは間違いを掘り起こすという下世話なスタンスではなく、あくまで少女時代の読書の楽しさを反芻するという意味で著したのが本著である。

次から次へと紹介される児童書は、まさに私にとっては必ず一度は読んだことがある懐かしいツボの本ばかり。
私のような少女時代を送ってきた方には、たまらなく楽しいエッセイだろうと思う。




沢山の本を次々に制覇していくのも、それはいい。

しかし何十年も前に読んだ児童書を大学で勉強して掘り下げたり、新しい観点から見直したり、神田の古本屋でもう一度手に入れたりする。
大人になって抱えなくてはならないちょっとした悲しさは、バニラ酒のようにモノクロの記憶と黄ばんだページの色が混ざり合うボトルの中で、古の甘やかさに溶けていく。



それは児童文学の記憶でしか叶わないと思う。












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