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水戸、忘れられた巨人 [マイハーベスト]

誕生日 ろうそく吹いて 立ちくらみ

起きたけど 寝るまで特に 用も無し

手を動かしながら、隣のテーブルを囲んでお年寄りたちが興じるカルタ読みの声に、思わずクスリ、とする。



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月に一度、父がお世話になっている老人ホームの入所者の方々に、父を見舞った後2時間ほどハンドマッサージをしている。

毎月行っているので、私の方はお顔馴染みの方が多いが、お年寄りの方からはだいたい「初めまして」な反応を返される。

おばあちゃまたちは、例外無く、きれいな指輪や腕時計をしたご自分のシワやシミのある手を「出すのが恥ずかしい」とおっしゃり、私のアクセサリーやネイルにとても興味を示される。
おじいちゃまは少なく、総じて女性の方がコミュニティー能力が高く、新しいことに積極的なのは、こういう時にも如実に現れる。

そのマッサージをしている傍らで、一人のヘルパーさんの解説付きで、おばあちゃまたちがこの「シルバー川柳カルタ」に興じているんである。
耳が不自由な方が多く、読み上げる方も取る方も大声なので余計にコミカルさが募る。
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(全国有料老人ホーム協会 ポプラ社編集部)

手をつなぐ 昔はデート 今介護

これ、全国のシルバー世代の方々から投稿された川柳の作品集があまりにも大ウケしたのでカルタにしたそうだが、実際に老人施設でお年寄りが興じているのを見ると、かなりブラックジョークっぽくて、笑っていいのかどうかすごく迷うシチュエーションである。

LED 使い切るまで ない命

ここで、「LEDの電球って、10年もつって言われてますからね〜」とヘルパーさんの解説。

傍で聞いている私は「その解説必要?」とドキッとするが、おばあちゃんたちは「あ〜、そんならアタシが先だわ」とケラケラ笑う。
驚くほど屈託が無く、肩の力が抜けた受け止め方は、人生への達観ゆえか。

一緒にエアコンを買いに行った時、「これは10年間お掃除不要です」と言った店員さんに、「こっちは10年も生きてないわ!」と言い放った元気な頃の父を思い出す。

その父もここで母を見送り、自らは車いす生活となり、入居生活も5年を超えた。
時々ボケるが、晩酌もし、食欲も旺盛。
私の顔を見ると開口一番「うまいもの、持って来たか」

今日はアベノミクスの危険度について、熱く娘の私に語る。
「最後に生き残るのは農業だぞ。オマエも庭になんか植えろ」
ハイハイと拝聴しておく。
エアコンを買いに行った日から、10年はとうに経っていると思うんだけど、父上様。

シルバー川柳カルタ、作ったのも遊ぶのもお年寄りなんだが、自分の老い様をこうやってユーモアで語れるような度量の広さが、寄り添う人達を、介護や老いという言葉の暗さから救ってくれる。

いいなあ。



ハンドマッサージをするようになってからもう2年近く。
その間、最初とてもお元気で、マッサージをしている間も楽しくおしゃべりをしていた方がだんだん記憶を遠くへ追いやっていかれる様子を、何人か目の当たりにしている。
寂しいし気持ちがしぼむが、仕方が無い。

それでも、こうやって世話をしてくださるヘルパーさんがちゃんといて、お仲間も居る平和な環境にいられるのだから、第三者から見れば長い人生を紡いできた末の穏やかな結実のように思える。



「私を離さないで」以来のカズオ・イシグロの10年ぶりの長編を読む。

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「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳/早川書房)

この人の切り口には、最初いつも手こずらされる。

今回は特に”記憶”がテーマで、登場人物の記憶が雌竜が吐き出す霧に覆い隠されて其々のバックグラウンドが見えないまま、アーサー王という日本人にはあまり馴染みが無い時代を背負ってストーリーが展開する。
ブリトン人の老夫婦が息子に会いに出掛ける危険な旅が、異人種サクソン人との対立構造の中で、半目の視界を通して進行していく。
よって読み手は五里霧中という言葉そのままのシチュエーションに、真っ逆さまに突き落とされる構図だ。

雰囲気は、ハリー・ポッターが悪霊と戦うようないかにもイギリスっぽい重々しい冒険物語風。

騎士、妖精、竜、修道院・・・
ゴシックっぽいファンタジー要素満載ながら、著者自身が「たんなるファンタジーではない」と語ったことで、一部の作家群からは「ファンタジーを見下した」と言われて、物議を醸した作品でもある。

読み手は二人の旅の先にあるものを必死で想像しながらねっとりとした霧を掻き分けつつ読み進み、思いがけない結末へ導かれていく。

すべての記憶を鮮明に浮き出たせることが果たして幸せなことなのか。

人には、思い出さない方が平穏でいられる記憶を覆い隠す霧が、本当は必要なのではないか。

人生の終末へ向かって人が次第に記憶を失くしていくことは、介護の現場を見ているとやりきれないことも多いが、ある意味本人にとっては幸せなことなのかも知れないと実感もする昨今。

困難の旅に出る主人公二人が、ハリーでもなく、勇者でもなく、不遇の老夫婦というところに、あるいは著者の意図も今私が感じているようなところにあるのだろうかと、あらぬ想像も掻き立てられる。

カズオ・イシグロ、毎回、深いなあ。







自宅、世界のポピュラー音楽史〜アーティストでつづるポピュラー音楽の変遷〜 [マイハーベスト]

毎年言うけど、この季節、夕暮れがサイコーである。

一日の仕事を終えて帰宅しても、トップライトからはゆったりとしたバラ色の光が、リビング中にこぼれ落ちてくる。
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折しもお中元でキャビアやチーズを頂いているなら、大事なムルソーの栓を抜かない理由がない。
今一番気に入っているINCOGNITOの”Tribes Vibes and Scribes"をアンプを通したスピーカーから流せば、コンクリート打ちっ放しの高い天井に反響して、結構いい感じの夏。



こんなことばっかり書いているから、悩みなく気楽に生きてるように見えるんだと思う。
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だからと言うわけではないかも知れないけれど、某婦人雑誌の取材を受ける。

テーマは「年取ってから始めたことで、今、ハマっていること」
(これもなかなかブッ込んでくる感じですね・・・)

まあ、この年の読者層ともなると、ファッションだの交際だのは既に達観し、興味は寄る年波にどう抗って楽しく生きるか、というところになるんだろうと思う。

・・・で今回私の場合は・・・

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えーっ、ドラムですかっ??

インドから帰ったばかりだったので、旅のほうかと思ったよ。




3年目に入ったドラムは、ハマっているというより藻掻いて(もがいて)いる。

2年かけて8ビートのいろんなパターンをやり、それでは、とカリキュラムがファンキーな16ビートに入った途端、撃沈である。

これは前にも書いたかと思う。

なんでなんだ、と先生も思ったかも知れないが、一番「why?」とツブれているのは私である。

余暇は出来る限りスタジオへ行ってやれる限りは練習しているつもりなのに、途中からずるずるとストロークが遅れていく。
「Nジマさん、もっと練習しないとね」と、息子と同じくらいの先生に言われてしまう。

やってんだけどさー、これ以上出来ねーよ、とは、悔しくて口が裂けても言えない。
センスと才能が無い分、人より練習量を増やさないとダメってことなんだろう。

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トシも取ってるしな。

自分のDNAにこのリズムが組み込まれていないんじゃないか。

なんで自分の身体がこんなにこのリズムに乗っていけないんだってハナシである。
そもそも(またこのモンダイになるんだが)8ビートと16ビートは何が違うんじゃいってハナシである。

ネットで調べても、先生に聞いても、なるほど!とハタと膝を打つような答えが見つからず、手当たり次第、それらしき本を読み漁ったことも前述したかと思う。

10冊近く読破したが、そこのところはカスったまま。

唯一、お膝元◯マハミュージックメディアが出版しているこの本が、とっ始めにポピュラー音楽のリズムスタイルをそれぞれざっと解説しており、この本がいいなと思ったのは、各々のリズムパターンで作られている具体的な1曲がそこに付記されていることだ。

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「世界のポピュラー音楽史〜アーティストでつづるポピュラー音楽の変遷〜」(山室紘一著/ヤマハミュージックメディア)

だってリズムを文章で表すと、ざっとこんなふう。

「2ビートと共通する部分が多いが、4拍子の形をとり、ベースは1、2、3、4拍をを4分音符で順次進行的にランニングする奏法が特徴。2ビートよりも緊張感が増し、より強いドライブ感が生まれる。※のNoteは、次の強拍に向かって半音上から、アプローチする。4beatのベース・ラインでよく使われる手法・・・・」

・・・はい??

素人はキツネにつままれたようである。
多少なりともポピュラー音楽を専門的にやっている人なら日常会話的なレベルで、これがどのリズムの解説かなんて、ぱっと分かるんだろうけれども。

この本は、その難解な解説に加え、具体的なモデル曲が上げられているので、耳からも理解を助けることができるんである。
解説を読んではiTunes storeで検索した曲をインストールして聞き込む、をリズムパターンの数だけ繰り返す。

冒頭、キンキンに冷えた白ワインと共に夏の夕暮れを彩るINCOGNITOも、ダメ出しばかりされている16ビートのモデル曲として挙げられていた1曲を世に放ったアーティスト集団である。



Amazonの書評では、取り上げられているアーティストに偏りがあるとか、大雑把に括り過ぎ、とか、その道の方からは酷評されているみたいだが、私のようなド素人が、ポピュラー音楽の変遷とそこに点在しているアーティストを俯瞰するには非常に便利な一冊であった。



人様から見れば気楽に見えるかも知れない。
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でも「年を取ってから始めたもの」って、結構苦労するし、ストレスにもなるんですわ・・・


自宅、気になる「あそこ」見聞録 [マイハーベスト]

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この週、我が家はアナベル・ウィークである。

家屋の北側の我が家の猫の額は、何度試みるも通常の植物が育たず、ようやく成功したのが西洋アジサイのアナベルと、下草に植えたローズマリーである。
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メグは朝の散歩の度に、たっぷりローズマリーをまぶしたフォッカッチャのような匂いになる。

アナベルが一斉に咲き誇るこの時期だけ、我が家はウェディング・パレスのよう。
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特にまだ湿度をたっぷり含んだ初夏の夕暮れが、一年で一番我が家を愛おしいと思う瞬間である。
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これだけの量が咲き誇るのに、白い花には付きものの芳香がまったく無いっていうのも不思議だ。

仕事から帰って、冷えた白ワインをグラスに注いで、夕食をつまみ食いする。
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それでもまだ外は明るくざわめいている。
夕闇に溶け出す、無臭の滴るような湿度というのも、また素敵だ。

日本、万歳。
(他意はありません)



同じくこの週、いろんな友人たちと、インド報告会を3回もやる。
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行ってみたいけど、なかなか勇気が無くて・・・が大半の意見。

みなさん、インドは命を狙わないから。
せいぜいサリーの値段ぼられるか、飛行機キャンセルされるだけだから。
中東や疫病感染諸国に比べたら、シリアス度数は低いから。

・・・・って、それで大騒ぎしたヤツが、物申すなって。
すみません・・・

それにしても、「インド大使館御用達」とは大きく出たな、銀座〇ンバイ。

カレー、思いっきりジャパナイズされとるぞ。
なんかこう、インドのとんがったところ、まったく出てないぞ。

インド大使館、一考されたし。




自分じゃ疲れていないと思っていたけど、帰国後3週間目にしてようやく巡ってきたオールフリーな日曜日。

もう何もする気が起らず、ただただ眠いだけ。
やっぱり這う這うの体で逃げ帰ってきた旅の後は、知らず知らずのうちに心の触角を畳んでしまうのかも。

だったら、ただ無意味に笑って脱力しようじゃないか。

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「気になる『あそこ』見聞録」(今井舞著/新潮社)

思わせぶりなタイトルは何を狙ったか知らないが、普段私たちの生活と並行して存在しながら、意図的には決して踏み入れることの無いパラレルワールド、「あそこ」の数々への潜入ルポである。

アムウェイ ・プラザ東京、東電株主総会、創価大学オープンキャンパス、豪華客船飛鳥Ⅱ船内見学説明会、石川遼父講演会・・・

こんな独特の価値観にまみれたスポットが、自分の当たり前のすぐそばに平然と存在することに対して掻き立てられる、好奇心とある種の畏怖の念が絶妙だ。

ソファに転がったまま、1章読んではまどろみ、1章読んではワインを注ぎ、もうホント有機物ですらないトドの置物のような格好で読んでいたが、突如がばと正座した「海洋散骨体験クルーズ」の章。

これ、私も参加したいです。

祖先の墓参や、両親の老い方、母の葬られ方、その後の自分の感情を通して、私にはひとつの信念が出来つつある。

無宗教の自分に墓は必要なし。
(たぶん宗教があってもだな)

私は好き勝手に自由に生きさせてもらっているので、死後に期待は何も無い。
孫まではともかくとして、それより先の子孫に、見たこともないやりたい放題のオバアさんのお墓の手間かけさせるのは忍びない。

法律上、焼いた骨をその辺に放置してはいけないのなら、やっぱりどこか迷惑にならないところに撒いてもらい、無になりたい。

以上、夫と息子たちには宣言済み。(やってくれるかどうかは確認できないけど)
夫はどうするのか知らないけど、向こうが先だったら撒いちゃう、私多分。

・・・という感じで、大真面目にいいもの書いてくれたという章もあり、単に茶化しに行ったわねというのもあり・・・

あー、面白かった!
オールフリー、糖質もストレスもゼロにリセット。


さあ、仕事するぞーーー
(一応、掛け声)







軽井沢、火花 [マイハーベスト]

この著者のことは、何となく知っていた。
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TVはほとんど観ないので、この50インチ箱の中でちっさく人生をまとめて大げさに展開させる連ドラというものにも、そこで蠢いている裾野の限りなく広い仮面舞踏会のような芸能界というものにもまるで疎い。

なのに、なぜこの又吉さんという人を覚えていたかというと、夫が観ていた名残の番組が無意味に流れ出ていた時に、確かあまり器量のよくない芸人さんたちが集められて「自分が似ていると言われた(人の)中で一番酷いと思ったのは」という質問への回答場面で(この質問もずいぶんアコギな感じだが)、この人は「排水口」と言い、思わずあの髪の毛を絡めとるための形状を思い出して笑ってしまったことがあるからだ。

彼のこの回答は、既成概念をぶっ壊すというお笑いの大原則をちゃんと捕まえているような気がしたし、屈辱を受ける(=名を挙げられる)人を作らないという意味でも、センスがある人なんだなあと思った記憶がある。

その彼が本を上梓し、しかも文芸誌に載るほどの出来映えだというので、一躍露出が見栄えのいい相方と逆転したというのは聞いていた。
彼が無類の本好きだということも相まって、ちょっと文学的なメディア露出も増えたようだ。

それでもなんだかなあ、という思いがあり、それはどうしてかというと、これまでもタレント本はいっぱいあって書店にコーナーが出来るほどだが、みんなゴーストライターが書いた取るに足らないものだったし、刹那的な言葉を出しては消すことで成り立っている彼のお笑いというホームグラウンドは、文学の熟成のスパンとは真逆の位置にあるような気がして、その本を手に取ることは無かった。

来荘予定だった孫達が突然の発熱とかで襲撃中止の連絡。
思いがけなく、のんびりとした軽井沢滞在となる。
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何年かぶりでスタバじゃないコーヒー店にも入ってみる。
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ごった返す旧軽銀座で、2000円超のケーキセットはさすがに敬遠されるのか、ここだけは昭和で時が止まったような薄暗がりが鎮座している。

激混み期間で新作はほとんど貸し切られ状態のレンタルビデオ店で「シカゴ」(1937年アメリカ。原題:In Old Chicago。1871年のシカゴ大火がクライマックスとなるスペクタクル)など借りるついでに、軽く読めるかと、カウンター前に積んであったこの話題本もバスケットに入れてみる。
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「火花」(又吉直樹著/文藝春秋)

一晩あれば十分読み終えることの出来る気軽な尺。

週刊誌の書評欄で絶賛されていた書き出しは、本好きが書き手に回った時にありがちな、肩に力入り過ぎ状態で読みにくい。
・・・と思う間もなく、力尽きたのか次第に文章は平坦に。

ストーリーは特筆すべきものも無く、文章もやはり彼のポジションがゆえのエクスキューズ付きの上手さと言うべきだろう。

それでも単純に面白がれるのは、やはり芸人の感覚を文学に持ち込んだことで、あのステージ上の丁々発止のリズムが、音としては無拍であるはずの文章の中に生き生きと感じられることか。

既成の概念をぶち壊すための言葉選びには独特のセンスと世界観が必要なのだろうし、その感覚を持った人がお笑い芸人として成功し、そういう人はまた同じ言葉を操る文学の世界にも門戸を開かれているのかも知れないと、これまでとは違う認識を持ったりもする。

私が著者を認識するきっかけともなった「排水口」のエピソードが、ちょっと違う形でだが、某所に登場する。

タイトル「火花」は、主人公のコンビ名スパークスからか。

彼の著作活動が、一時のマスコミの絶賛の嵐から飛び出したスパークだけで終わらず、異業界を繋ぐ息の長い灯火となることを願う。

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我が別荘を10年以上警備中のコンドル。

自宅、踊る昭和歌謡〜リズムからみる大衆音楽〜 [マイハーベスト]

人間誰しも、突然自分が何も知らない、何も出来ない、大海に放り出された小魚になったような気分になることってないか。

ほぼ60年も生きてきたのに、何一つ満足にできることが無いっていうのは、なんかやり方を間違えているんじゃなかろうかと迷う。

耳慣れた8ビートから一歩進んで16ビートにドラムのレッスンが進んだ途端、いきなりその惑いの大海に躍り出てしまった。

テクニカルなことは練習を積むとして、だいたい8ビートと16ビートの違いってなんなんだろうと。
(ドラムでは確実に違うリズムだが、逆のベクトルで考えた時にその曲がどちらなのかが分からない)
8分音符が主体の曲、16分音符が主体の曲っていうありきたりの説明では納得できません、先生!

8分音符が主体ってどういうこと。
8分音符の羅列の中に1コすごく目立つ16分音符のフレーズがあったらそれは16ビートだっていうなら、主体っていうのはどういうことを指すの。

こんな面倒な生徒を持った先生こそいい迷惑である。

ここでクラシック以外の音楽に一切触れてこなかった経験の浅さが一気に出てしまった。

8ビートって日本独特の言い回しらしいが、じゃあ外国では何にあたるの。
8ビート、16ビートと拍子記号や速度記号との棲み分けはどうなるの。

クラシックの曲想を決めるのは、旋律以外には拍子と速度しかない。
ビート、という感覚はそこに無い。

私が戸惑うのは、その打楽器専用事項に初めまして、だからだ。

混乱の極地である。

いってみましょう。

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「踊る昭和歌謡〜リズムからみる大衆音楽〜」(輪島裕介/NHK出版新書)

分からない時にはとにかく手当たり次第、読み、聞くしか無い。

西洋、特にアメリカや南米から入ってきた音楽を日本がどう咀嚼し、固有の大衆楽曲に練り上げていったかを、主にリズムの角度から鮮やかに綴る異色の昭和史。

これで日本固有の言い回しである8あるいは16ビートの意味が解明されるんじゃなかろうか、と期待したんだけど。

う〜ん。

かすりはするけど、なかなか直接痒いところに手が届かない感じだ。

経験が浅いと、本のねらいまでピントがずれるんだな。

昭和初期のジャズに始まり、マンボ、ドドンパ(またわからない言葉が増えた→しかしこれが筆者にとってはかなり画期的な日本固有のリズムであるらしい)、ツイストはてはユーロビートまで。
座っておとなしく聴くクラシック音楽に対して、ダンスホールに躍り出たリズムによって生かされる身体の動きを伴う曲を「大衆音楽」と位置づけて、日本の歌謡曲の軌跡を追う意欲作ではあろう。

耳にはするが、自分が特に触れてこなかった世界が、自分の人生と平行して昭和という時代にこんな風に横たわっていた事実そのものが、大きな驚きでもある。

しかし・・・

ここで日本でのお勉強は一旦タイムアウト。

「ブルースはジャズやポピュラーが生まれる前にある音楽ですから、しっかり聴いてらっしゃい」

先生からまた課題を一つ突きつけられた恰好で、ロバート・ジョンソン『Sweet Home Chicago』をもらい、明日シカゴへ発つ。

今度はこの本を片手に。

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「アメリカ音楽史〜ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで〜」(大和田俊之/講談社選書メチエ)

3月から走りに走った時間を一旦おいて、旅行者の群れの中にのまれる。
私もたった一人の無の存在になりながら。

たっぷりとした一人の時間が私を押し潰していく。
そうなりたくて、いつも旅を決める。

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自宅、スラムドッグ$ミリオネア [マイハーベスト]

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一夜明けて素晴らしい天気である。

若干花粉アレルギーあるので、自分はマスクをして、今年初めて自宅中の窓という窓を開け放す。

まずは昨日の衣服とリハーサルどおりに出来なかった鬱憤を洗うのだ。

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2度目の◯マハ合同バンドライブ。

我らが思い出横丁(いちお、バンド名ね)のWhite Roomは、メンバーの心にそれぞれ歯ぎしりと反省を残して終了。
多分来年の今頃、この曲聞いてしんみりするなー。

2、3日前、去年のWoman叩いてみて、ドラムスティック握ったばかりのピュアな自分を思い出して泣けたもんなあ。


バンドが組み上がってから3ヶ月の準備期間は、最初短すぎるような気がしたが、3週間前にリハーサルが終わった後は妥協が腹に居座り、だんだん同一曲を練習するのにも飽きて、一人練習はやればやるほど雑に下手になっていくような気がして、ようやく終わってほっとしたというのが正直なところである。

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場当たりも一切無い全くのぶっつけ一本勝負なので、そこにピークを持っていくのは99%ムリ、うまくやるのは宝くじ当てるようなもんだけど、それにしても、あーっと走って終わってしまった無為な感じは、ドラム担当としては責任重大と思う。

バンドの打ち上げ、荒れるだろーなー。


しかし!
今日は完オフである。

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飲むよ、昼間っから。

めっちゃ早い演奏順番だったので、昨日も家族や友人と早々明るいうちから打ち上げちゃったけど、今日はスティックは握らない(16ビート毎日叩きなさいって言われたばかりだけど)、一人でワイン飲みながらDVDに溺れ込むのだ・・・
しかし哀しいことに、この前立て続けに3本観たばかりなので手持ちが無い・・・

仕方無く、どこかの飛行機の中で途切れ途切れに観たことがあって最後まで敬遠していたコレを。
ええ、いまさらながらコレ・・・また一番ベタなインド関係を。

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「スラムドッグ$ミリオネア」(監督:ダニー・ボイル/デーヴ・パテル、フリーダ・ピント他)

・・・・泣いた

アカデミー賞総ナメにするはずだよ。

貧困や階級制度や悲壮感を売り物にしているというもっともらしい批判も知ってるが、映画としてのストーリーの畳み込み方、子役たちのハンパない生命感、躍動感、主人公の心意気の清潔感が、そんな屁理屈をぐんぐん追い越していく。

スラムに生れ落ちたことも運命なら、4択から選ぶファイナルアンサーも運命(It is written)。

最初から筋書きは出来ていた・・・このフレーズで全編の展開をまとめ上げているところが、創作物の映画としての完成度を確実に上げている。

それにしてもインドの子どもたちの瞳はなんと大きく、輝いていることか。
大人になってからのヒロインの完璧なフェイスラインと共に、ビジュアル的に単純に感動する。

主人公が生まれ育つスラム街は、インドの乾いた風と強い光の中で、腐敗臭の無いエッセンシャルな風景に昇華されている。

「今まで観た中で一番いい映画」ランキング、私の中で更新された気がする。



自宅、きっと、うまくいく [マイハーベスト]

こんばんは。

濃いチャイな気分ですよね。



たて続けにインドを題材にしたDVDを3本観る。
インドに行くと決めてから、頭の中はカレー風味でいっぱいである。
行く前からこんなに盛り上がる国って、いったいなんなんだろう。

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「マリーゴールドホテルで会いましょう」(監督:ジョン・マッデン/ジュディ・デンチ、トム・ウィルキンソン他)

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「ダージリン急行」(監督:ウェス・アンダーソン/オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ちょっとだけビル・マーレイ他)

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「きっと、うまくいく」(監督:ラージクマール・ヒラニ/アーミル・カーン、カリーナ・カプール他)


結果から言うと、マリーゴールドとダージリンはアメリカで作られた、欧米人が主人公の、欧米から見たインドだからして、路上に横たわっている浮浪者も壮絶な食中り風景も無く、綺麗なリゾート風画面が続く。
登場人物の設定自体が、気ままに振る舞う欧米人にインド人が仕えるというコロニアルな雰囲気(アジアに対してのこの欧米の西高東低な思考ってのは、永遠に変わらないんだろうなあと思う)だから、こんな素敵な旅なら何を騒ぐことがありましょう、て感じ。

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「インドなんてもう絶対行くか、なますてっ!」(さくら剛/PHP出版)に出てくるようなインチキ占い師も、カメラが腐るようなトイレ風景も無し。

(また読んでしまいました[もうやだ~(悲しい顔)] 酷すぎるインド旅行記「インドなんて二度と行くか、ボケ!」の続編。恐いもの見たさってあるんだな、人間・・・)

「きっと、うまくいく」はボリウッド版「グッドウィル・ハンティング」みたいなストーリー。
それぞれ貧しい家庭から家族の期待を一身に背負って名門大学へ学びにやって来た青年たちの人生の模索と友情というシリアスな設定にも関わらず、ところ構わず演歌風ナンバーに乗ったコミカルなダンスシーンをブッ込んでくる。

なんじゃー、こりゃー。

ストーリーも二重三重に畳み込まれるような感じで、実に濃い。

それでも名門大学が舞台となれば、かなりいいランクのインドっていうか、普通日本にある生活だよ。

私はインドの映像に何を期待しているんだろう。


インドへ一緒に立ち向かう相棒とは、この一週間、世界一取得が難しいと言われるインドビザへ攻め込む話題で大盛り上がりである。

あ、ビザ要るのね、って感じで、ESTAみたいにオンラインで簡単にゲットできるつもりで仕事の合間にやってみるかとPC開くも・・・・・・。
数分で断念、ここは委任状書いて写真添付して旅行社という専門家に丸投げするのが賢いと判断する。

だって、自分でやってたら1ヶ月かかるって誰か言ってたもん。
面倒くさいの、キライ。

オンライン申請とは名ばかりで、オンラインで取得できるのは数10項目に渡る(宗教とか、死んでいても両親の出生地とか、国籍をチェンジしたことがあるかとかないかとか・・・・インド、なんでただの旅行者の情報をそんなに聞きたがる・・)めっちゃ長い申請書だけで、結局はそれにすべて記入し切ったら写真と一緒にビザ発給センターなるところへ出向かなければならない。
千鳥ヶ淵のお隣さん、インド大使館ではないのである。

Why? Why, India??

申請に行くと、そこでまた難癖(・・にしか思えない)付けられて突き返され、再申請に赴くことになる。

(相棒も職業正直に書いてツーリストビザを申請したら、ジャーナリストビザの観光目的にしろと返されたそうだ。観光目的ならツーリストビザでいいじゃん!このような諸事情考え合わせ、無能なハウスワイフのサイトシーングにしとくのが一番無難だと判断する)

これを延々やっていたら、きっとインド行きの飛行機に間に合わない。
行く前から、インドの分からなさに付き合っておれん。

(旅慣れた相棒は今週クリアーしたらしい。さすが!)


そんな思いをしてまで、なぜ行くインド。
インドと北朝鮮は一人で行ってはいけない(北朝鮮は二人でも行かないけど)と言われながら、なぜ行くインド。

その答えはこの本にあるのかも。

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「河童が覗いたインド」(妹尾河童/新潮文庫)

経済的に豊かな観光客からお金をもらったり、高くモノを売りつけることがなぜ悪いことなんだ、Why, the Japanese? というインド人も、トイレに寝たいと思うほどの壮絶な下痢も、いたずら小僧のような目で面白がる。
壮絶な一夜を過ごした後、ティッシュで栓をして(Where?)今まで通り好奇心の赴くまま食べ続けたというから見上げたもんである。

それがコツなんだろうと思う。

きっと、うまくいく。

そう信じよう。


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今週末の合同ライブに向け、バンドの最後の練習。
インドインドしている場合じゃないのだ。

終わった後はお決まりの思い出横丁。
本日はホルモン焼きとビール。

カレーじゃないです。


ガンバれ、わたし。



自宅、あの日、パナマホテルで [マイハーベスト]

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キャリアオイルが凍ってる!

春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらぬと 声もたてず
時にあらぬと 声もたてず

亡母がこの時期になるといつも口ずさんでいた「早春賦」。
美しい歌である。

気が付けば、弥生この月に思いがけず寒い日があると、私もいつの間にかこの歌を口ずさんでいる。
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その母に引きずられるようにして5年前に入所した有料老人ホームで暮らす、ほぼ寝たきりの父を月一度見舞う。

自分の認知症発症をいち早く気付いて娘に迷惑をかけぬよう自ら入所を決め、3年後誰にも告げずにそっと旅立って人生を完璧にマネージメントしてみせた母と違い、父は見苦しくのたうち回り、人を恨み、境遇を恨み、身体の自由を失い、それでも記憶は失わないでいる。

それもどんなに辛かろうと思う。

訪問すると「どうして俺をこんなところに放り込んでおくんだ(自分で母の後を追って頼むから入所させてくれと言ったくせに)」と怒鳴られることもあり、今日のように二人で1時間以上も地球儀を見ながら世界旅行のシュミレーションをするピースフルな日もある。

「やっぱりスイスがいいなあ。山はいいなあ。スイスは5回行った(私の記憶では1回だと思う)」
「お前もいろんなところへ行け。普通のつまんない主婦になるんじゃないぞ。(ハイ、言われなくても実行してます)」

1年ほど前に買って父の部屋に持ち込んでおいた地球儀の上の渡航済みの国に、いつのまにかラインマーカーの印がついている。

はっと胸を衝かれる。

母の死後遺品を整理していたら、海外旅行の新聞広告の切り抜きが沢山あって、彼女の心がもう叶わない異国をずっと旅していたことに胸が潰れる思いがしたのを思い出す。
父も一人の時間を、こうやって4200万分の1の地図の上で旅行して過ごしているんだなあと思う。

数週間前、人は旅のような一時の経験よりも、ずっと手元に残る物質の購買にお金を使いがちだというウォールストリートジャーナルの記事をJohnnyと読んだが、人生の最後にどちらが幸せの余韻として残るのかは、両親の例を見れば日を見るより明らかである。

父の憎々しげな口調にイラッとしながらも香るオイルでハンドマッサージをしてやれば、「ああ、お前がいてくれてよかった(ようやく気付いたか)」と言う。
その父を残してまた、長い常磐高速の上り車線に入る。




久しぶりに「純愛」という年齢に不似合いな言葉を思い出した。

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「あの日、パナマホテルで」(ジェイミー・フォード著/前田一平訳/集英社文庫)

第二次大戦直前のシアトル。

共に子供を真のアメリカ人に、と願う両親に、地元アメリカ人が通う小学校に入学させられた中国系二世のヘンリーと日系二世のケイコ。

中国本土にて旧日本軍の暴挙を経験したヘンリーの父親は、アメリカの敵国になりつつあった日本の子供と間違われないように、息子に「I am a Chinese」というバッジを付けさせる。
それは世間から息子を守る唯一の手だてでもあったのだが、ヘンリーはそれが嫌でたまらない。

やがてヘンリーはアメリカ人の学友たちの差別から身を守るように特別な給食の手伝いをするようになるが、そこで同じ役を言い渡されたケイコの可愛らしさに惹かれるようになる。

お互いを守るようにして育んだ淡い気持ちは、やがて突入する第二次大戦により米国本土での日系人強制収容という権力で引き裂かれる。

国と父親という絶対的な存在から、ノーを突きつけられた日本人少女を想うが故に、そこに必死で立ち向かっていく12歳のヘンリーの自立の過程が胸を打つ。

全米110万部のベストセラー、世の中に愛おしいものがあるってこういうことだったな、とにじむ涙が思い出させてくれる。

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自宅、インドなんて二度と行くか!ボケ!! [マイハーベスト]

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終わったああ〜〜〜

リハーサルが・・・

土砂降りの池袋。
ああ、演歌みたい。

結局6連符は叩けなかった。

本番3週間前、居並ぶ先生たちを前に演奏するこのリハーサルで叩けなかったら、あきらめて16分音符にしようと決めていたけど、なんか出来るんじゃないかって勝手に自分を過大評価してたみたい。
ていうか、香港・ミャンマー歩き回って地道な練習もしてこなかったのに、言うな、下手くそ。

1拍にあと2つ音符を押し込むことがこんなに難しいなんてね。
そして、2つ音符を減らして1拍を叩くことで、こんなに挫折感を味わうなんてね。

仕方無い。
繋がってる6連符じゃ何だか分かんないし。
16分音符でいいよと言われてしまったし。

ものすごい疲労感と一緒に揺られる帰りの電車。

疲労感・・・当然!

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前日練習後、ギターとベースのロックなオジさまたちに、VIPでディープな新宿の飲屋街に連れ込まれて、どんだけ飲んだことだろう?

うわー、こんなところへ来て補導されないですか。

来年還暦の精神的未成年オバサマ、オタオタである。

でも、薄暗くごちゃごちゃしている隅っこの方にもぐり込んで飲むって妙に楽しい。
子供部屋の押し入れの中に毛布とお菓子を持ち込んで巣作りしたのと同じ気持ちなんだろうな。

そう、ここはオジさんたちの巣穴だったんだ。
今や、新宿駅のガード下と表通りに面した店の裏側の細ーい隙間に立ち並ぶ無数の赤提灯居酒屋群はコアな東京名所となり、蠢く人々の半数は外国人だけど。

誰か倒れている人がいる。
アンビュランス、アンビュランスと外国人が叫んでいる。

トイレは共同の日本式。

それでも日本のカオスはこんな程度だ。
まだまだカワイイ。

そう、この国に比べたら・・・

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「インドなんて二度と行くか!ボケ!!・・・でもまた行きたいかも」(さくら剛/アルファポリス文庫)

降って湧いたインド香料観察ツァー。

一年で一番暑い最悪の時期に、片道7時間の車移動。
想像を絶する衛生事情(いや、ずっと想像はできてた。だから足を踏み出せなかった・・・)。
あの手この手でお金を巻き上げようとする論外な人々。

一抹も二抹も三抹も不安である。

常々、インドだけは一人で行ってはいけないと、一ヶ月彼の地を放浪し歩いた次男が言っていた。

行くなと言われると行きたくなる。
16分音符でいいよと言われると、どーしても6連符が叩きたくなる(ちょっと違う・・・)

一人じゃないし。
誘ってくれたお相手がいるなら行こう、ホトトギス。

・・・で手に入れた、地球の歩き方とこのショーゲキ本。

いやー、想像を絶する(いや、想像はできていた・・)キタナさである。
撮るとカメラが壊れそうで撮れないというのは分かる気がする。
それほどなんだと思う。
「いやー、すごかったわ」と土産話に出来そうな不衛生程度なら撮るもん。

多分比べたら、思い出横丁の共同和式トイレなんか頬ずりできるってもんだろう。

電車の中で読みながら思わずマスクの中で声を殺して笑い、そして最後に泣く。

悪賢くて不衛生なインド人たちと戦いながら、芸人になり損ねた20代の筆者は自分の立ち位置のアドバンテージを後ろめたく感じるようになる。


おっさんの自転車を漕ぐ足元を見ると、裸足である。
ボロ布1枚まとって、子供5人養うために裸足で毎日旅行者を乗せて自転車を漕ぐ。
途中車の窓に映ったオレとおっさんの姿を見比べると、つくづく世の中不公平だなと思う。
もしこの世界が本当に平等にできていたなら、今この場ではオレがおっさんを乗せて必死で自転車を漕いでいるだろう。
明らかにおっさんの方がオレより何倍も苦労しているはずなのに、そのおっさんの汗かく背中に悠々と乗っているオレは一体何様なんだろうか。
だが、それでもオレは、また日本に帰ったらどんなインド人よりもぜいたくな生活をするのである。
(筆者はインド名物のトランスポーテーション、リクシャー=自転車で引っ張るリヤカー風乗り物に乗ってます)

そう、生まれる国を人は選べない。

清潔で平和な日本に生まれ育ってインドへ旅行し、わあ、きたなーい、かわいそうーと言うのは容易い。
ある意味それが観光(?)ポイントになってしまっている。

でも観光客からお金を巻き上げつつ必死に生きているインド人と濃密に過ごした筆者は、その悪賢さを罵倒しつつも、日本人としての不作為な傲慢さに気付いていくのだ。

うーん、深いなあ、インド。

でも大丈夫か、インド?




自宅、わたしの日本語修行 [マイハーベスト]

Johnny, did you watch the TV?!

大急ぎで、今宿題を送ったばかりのアドレスへメールを送る。
先週初めの夜である。

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「やらないよりはマシだろう」精神で、床暖の入った快適なパウダールーム(我が家の核となる、トイレ・洗面シンク・バス・シャワーが一緒になったスペース。ドラムの練習もここで!)に常時AFNを流しっぱなしにしているのだが、どうも普段ぼんやりとしか分からないニュースの内容が分かりすぎる。

・・・・だってだって、今やったアサイメントの記事とおんなじだよ!

http://www.wsj.com/articles/max-boot-why-america-wont-pay-ransom-to-islamic-state-1417215977

違うのは当事者が日本人になったってことだ。

昨年のアメリカの詳細な調査に基づく主張記事。
アメリカやイギリスがISISにransom(あー、この単語 、しっかり覚えたな)を払わないから捕虜が処刑される。
でも払わないのは当然のこと。
身代金は新たなテロや戦争の資金源になるだけでなく、身代金を出すと分かればその気前の良い(…と記事にはある)国の捕虜は実際増えるのだ、と。

この記事に対する私の意見も全く同じであったが、仕上げた直後30分で聞いた日本人殺害予告には震え上がる。

It's really tough, isn't it?

Johnnyからはすぐ返信があり、なんかタイムリーな宿題だったね、とかいう言葉で片付けてはいけない雰囲気に二人で陥る。

現時点で解決策はまだ見つからない。

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武力と暴力で人の心をねじ伏せようとする勢力の前に静かに立ちふさがるものがあるとするなら、それは人間としての知力なのではないかと思う。

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「わたしの日本語修行」(ドナルド・キーン著/白水社)

日本文学者としてのドナルド・キーン博士の名はつとに名高いが、私がこの名前を深く心に刻んだのは、氏が東関東大震災を機に、静養していた母国を離れ、日本国籍を取得して日本永住を決めたと聞いた時である。

津波による福島第二原発放射能汚染は世界中を震撼させ、在住の外国人は皆日本を離れ、また日本を訪れる外国人も皆無に近かった時である。
主役が来日を拒否した寂しいメトロポリタン・オペラの最後にオーケストラが奏でた「ふるさと」が、会場の日本人すべての心を大きく揺さぶったことを一緒に思い出す。

そのタイミングでの、帰化である。

氏がどれだけ日本に心を寄せているかを思い、目頭が熱くなる。

そのドナルド・キーン博士が、どうやって第二次世界大戦という日米が敵対し合った時期を経ながらも、日本語を学び、日本人よりもより深く日本を理解するようになったかをインタビュー形式で綴った本著を読むと、ひたむきな知識欲に身を任せて学び進むことは、国と国との争いをはるかに超えた心の平安であると思い知らされる。

氏は幼少の頃、父親とフランスを旅し、フランス語が出来さえすればこの国の人たちと自由に話せるのに、と外国語を学ぶ意義に気付く。

優れた才能に恵まれてさまざまなヨーロッパ言語を身に着けた氏は、その後勃発した大戦から気を紛らわすように漢字の勉強を始め、タイムズスクエアの本屋で売れ残りのThe Tale of Genjiに出会い、「源氏物語」の美の世界に耽溺していく。

日米開戦の直前、ついに氏は日本語の勉強を始める。

サイタ サイタ サクラ ガ サイタ・・・・


第二次世界大戦のさ中、日本語学校に入るために海軍入隊。
日本語学校を終えた後は戦地へも赴き、戦争の真っただ中のハワイで日本文学の授業を受けたりもする。
日本が敵国だということは氏にとっては何の意味もなさず、強い日本語への興味が現実を融解させる。

戦後コロンビア大学はじめハーヴァード、ケンブリッジとそうそうたる大学で日本語研究、のち念願の京都大学大学院留学。
戦後のアメリカに日本文学の理解の輪を広める。

画数の多い漢字が好き。
憂鬱、臺灣、鹽・・・(読めますか?)

なのに、「日光を見ないうちは結構とゆうな」はあまりピンとこない。

そう、この音で遊ぶっていうのは外国の方にはあまりピンと来ないのかも。
(ウチのJ先生は、スペアリブです、スペアぶりです、っていう某ガスクッキングヒーターのシャレがどうにも分からないって言ってたけど、それと似てるんじゃないか)

氏の日本語修行は、普段何気なく使っている日本語を裏側から逆にみるような感覚で、我々日本人には大変興味深い。



幼少時、その国の言葉が分かればその国の人と話せると気付いた芽は、政治的な国境や敵対する環境をものともせず、キーン氏の中で見事に日本文化のかけがえのない理解者という存在に結実する。

我々は自国の言葉の厚みを再認識すると同時に、向学心という平和主義をこの本から学びとりたい。

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自宅、ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち [マイハーベスト]

冬になると、身体が脂質の多い木の実類を欲するようになる。

ただの無塩のクルミを貪り食うのも冬眠前のリスかクマになった気分で悪くないが、この冬の羊羹、旨し。
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22日、冬至。

花屋さんが畑からもいできたばかりの柚子をバスタブに投入。
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香しさよ、よくぞ日本に生まれけり。


23日、自宅でクリスマスパーティ。
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翔子さんのパフォーマンスに、孫達は釘付けである。
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音楽と、ちょっとした食べ物と、仲間たち。
何だかそれ以外に欲しいものが今は見つからない。


久しぶりに読後、心がすっと晴れやかである。

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「ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち〜ボートに託した夢〜」
(ダニエル・ジェイムス・ブラウン著/森内薫訳/早川書房)

1936年、ナチス政権下のドイツで開催されたベルリンオリンピック。

上流階級のスポーツとされていたボート競技で、田舎者と言われたシアトル・ワシントン大学のボート部が、オリンピックをプロパガンダに利用しようとするドイツ・イタリアを相手に熱戦を制し、全米を熱狂させる。

邦題を見ると焦点がこのオリンピックの特異性に当たりがちだが、クルーの中で最も過酷な生い立ちを辿るも、彼の人間としての圧倒的な資質が読む者の胸を打つジョー・ランツのバックグラウンドを軸に、芸術的なボートを創作する職人で、クルーの人間性に大きな影響を与えたジョージ・ヨーマン・ポーコックの示唆を絡めながら語られるノンフィクションは、大長編ながら全編に爽やかさが吹き抜ける。

成長期にある青年が全身全霊をかけて打ち込む姿と成果は、いつの時代も感動的で芸術的でさえあると私は思う。
悔しいけれど、女性はその世代においてその域に達する極限性を持たない気がする。

若者のひたむきで清潔な熱量は、傲慢な政治や征服欲を圧倒するものだ。


ボート競技というものに特に触れたことがなかったので、本著で初めて詳細を知ったが、ステージが水の上だからだろうか、スポ根ものにありがちな泥臭さが感じられず、ただ清涼感のある折り目のようなものが通ったスポーツという印象。

もし精神的肉体的に「正しい」成長というものがあるとしたら、まさにこのクルーの青年たちのそれだろうと思わせる。

気温零下。
ボートが湖の上を滑り出した途端、街の喧噪がすっと遠ざかる。
聞こえるのは艇尾でストロークのカウントを叫ぶコックスの声だけ。

そんななめらかな無音の世界を体験してみたいものだ。

数年前の英国旅行中、ウィンザー城のそばを流れるテムズ川の支流を、授業なのか、高校生たちがボートで漕ぎゆく情景が美しくて見入ったことを思い出す。




軽井沢、彼方なる歌に耳を澄ませよ [マイハーベスト]

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例年のごとく、今年最後の連休に一人山荘終いに軽井沢へ出掛ける。

葉がすっかり落ちた森は、まるで心を洗い流したかのように明るくて、静か。

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夜は零下に冷え込む高原の晩秋。
二匹の毛並みが含む暖気が愛おしい。

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♪ブリザ〜ド、オ、ブリザード・・・・・

スノードームの中にちっちゃい吹雪を起こしては、パトラッシュを雪まみれにして遊ぶ。
もうすぐ軽井沢には本物がやってくる。



この人の冬の描写はすごい。
カナダ東端の島の冬を知らないから無責任に憧れる。

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「彼方なる歌に耳を澄ませよ」(アリステア・マクラウド著/中野恵津子訳/新潮クレストブックス)

以前、この短編の名手の「冬の犬」をここでご紹介したかと思うが、これは生涯16作品という彼の寡作群の中の唯一の長編だ。

「冬」と「犬」は彼のキーワードのようだ。

犬という動物は、やっぱり夏や春じゃなくて冬に引き立つ。
フランダースの犬にしても南極物語(これは実話だが)にしても、厳しい自然の寒さと仕打ちに負けずに人間に寄り添おうとする健気さが犬の体温を通して実際の温もりとなり、我々の心を暖める。

(ああ、洋服着て毛布にくるまっているウチの駄犬たち・・・)

本著においても、その体温は余すところなく描かれる。

1700年代スコットランドから大西洋を渡って未開のカナダの孤島へ入植せんとする主人に置き去りにされた一匹の犬は、冬の海に飛び込み移民船の後を追う。
その姿にたまらなくなった主人は犬を船に引き上げ、置いてきたことを詫び、共にカナダのケープ・ブレトン島に渡る。

犬は何が待ち受けているかわからない入植地での険しい生活に寄り添い、開墾の歴史を共有し、子孫へのバトンをも自らの家系をもって人間と共有することになる。

本著は犬の話しではもちろんなく、その最初のハイランダー(スコットランド高地人)からその後何代にも渡って語り継がれた移民生活や一族の歴史を、末裔である「私」が回顧していく展開なのだが、彼ら一族の犬もまた、この最初に船に引き上げられた犬を祖として、重要な役割を果たしていく。

「私」の兄と両親がブリザードの日に渡っていた海の氷の下に落ちた時も、その悲劇を知らせにきたのはあの犬の子孫で、連れ戻されても連れ戻されても飼い主が沈んだ海を氷に乗って渡ろうとする。

「私」の詳しい生い立ちや感情は改めて描かれないが、幼い頃こうして両親を失った「私」が、双子の妹と共に父方の「おじいちゃん」と「おばあちゃん」に大事に育てられ、荷をひく馬に糸を結びつけて自分の歯を抜くような荒っぽい労働者となった4人の兄たちとは違った教育を受けて、今は裕福な顧客を沢山持つ思慮深い歯科医に成長したことが読者には次第に分かってくる。

荒々しい風景がまざまざと目に焼き付くような描写を背景にして、開拓の根を下ろした一族の生き様が時には鋭く、時にはユーモアを持って語られ、長いページ数を飽きさせない。

ブリザードの中に響き来るケルトの歌声。
地に根付いて生きることの重厚感。
一族間の濃厚な絆の明と暗。

がっしりと重量のあるスコットランドの毛織物のようなテクスチャーを読んで感じ取りたい、格別な冬のための長編である。


自宅、グランド・ブダペスト・ホテル [マイハーベスト]

昨夜は大渋滞の高速をカメのように走って父を見舞い、本人熱烈希望の晩酌の許可を施設のマネジャーに取り付け、夜は夜で錦織クン観戦で(サービスが入らな過ぎたよお〜〜)大した睡眠も取っていないのだが、それがなんだというのでしょう!

だってだって今日は、朝から夫がゴルフに出掛け、久しぶりに他に予定が無く、家中の時間を独り占めできる極上の日曜である。
今日はクリスマスツリーを飾る!と、決めていたんである。

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昼前にサンルームの大袋からツリーのパーツを引っ張り出して組み立て、後はジャズの流れるリビングの床暖房の入ったフロアに座り込み、白ワイン飲みながら鼻歌作業である。

あ〜、極楽、極楽。

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今年もオーナメントを新しく買い足すことがないまま毎度おなじみのデコレーションだが、出来上がって一人、点灯式を行う。
もちろん、新しいシャンパンを抜く。
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玄関も毎年同じ。
もう10年近く使ってるガーラントだけど、よく電球がもつわ。
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クリニックも1週間ほど前からアプローチに点灯中。
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夕方のお散歩がてらお寄りください。

ツリーが仕上がったならば、もう今日は化粧もしない、外へも行かないと決めているので、買っておいたDVD「グランド・ブダペスト・ホテル」を観ることにする。


雑誌で映画評を読んで観たくてたまらず買ったのだが、夏のサムイ往路便の中で一度観てしまったから、今日はおさらいってことで。

ブダペストとかプラハとか中欧の独特の重くて暗いエキゾシズムに惹かれる。

その歴史的民族的な重さを、まるでソフィア・コッポラかと思うようなガーリーな色彩と独特のコミカルなテンポで中和して、他に類を見ないおとぎ話ミステリーを展開。
視聴者のターゲットはどの辺なんだろう?

いろんな国の人と事情が行き交う、ホテルという交差点。

栄華を極めたホテルはそれはそれは華やかなものだけど、その記憶をかき抱いて静かに今を生きている、さびれたホテルもなかなかいい。
それがパリでもなく、ミラノでもなく、ブダペストというところが実に上手い。

そのホテルの今昔を駆け抜けて語られる、名物コンシェルジェにかけられた殺人罪の嫌疑と、真相解明への奔走と思いがけないご褒美。

クリスマスの絵本を開けたらゴージャスで軽快なテンポのミステリー。
そんな楽しさを是非、この季節に。

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自宅、旅する知 [マイハーベスト]

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日射しが部屋の奥まで届くようになった。

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冬の準備である。

ポーランド産のウォッカ大量購入は、飲むんではなく(飲んでも暖まるだろうけど)、その微量にエッセンシャルオイルを溶解させてお風呂のお湯に溶かし込むためである。
その日の気分でブレンドするシトラスとスパイスの、市販の入浴剤では到底叶わない肺の奥まで染み透るような香しさと加温効果に一旦ハマったら、何も入れないバスタブは寂しすぎる。



エボラが騒がしい。

航空網がこれだけ発達した現代で、本気で「日本は極東だから(安心)」なんて思ってる人がいるんだろうか。
球形の地球に、端っこがあるはずが無い。

文化人類学者、船曳建夫さんの「旅する知」を読む。(海竜社)
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自由に世界を行き来できるわけは、航空網の発達いかんではなく、心の壁や偏見を取り払う勇気と研ぎすまされた好奇心、それらに尽きることを思い知らされる。

20歳で東大の学生紛争に見切りをつけ、著者は横浜港をナホトカに向けて出航する。
行き先はあこがれのパリ。
当時そこまでの距離感は、今と比較できないくらい大きかったはず。
海路を含む複雑なルートの選択は、シベリアを経由してモスクワからパリへ向かえば旅費が半額で済むからだ。

そのルートを選択したがゆえに上陸してしまった冷戦中のソ連は、その体制のどんよりと層の厚い薄暗さを、全共闘の活動を経て左翼思想の洗礼を受けたはずの彼の網膜に強く焼き付けることとなる。

ほぼ40年経って、著者はサンクトペテルブルクと呼ばれるようになった旧レニングラードを再度訪れる。
80年代に、体制の隙間から膿がこぼれ落ちるようにもろもろとソ連が自滅していき、冷戦に終止符が打たれ、西か東か、右か左かの二極でものを考えるクセがついてしまった我々の価値観にも変化が起きた後だ。

そして筆者はロシアはソ連であった時代を含め、この100年何の変わりも無く悩んでいると感じる。
冷戦の幕引きという大きなイヴェントがあったにも関わらず、アメリカが日々上書きされているのとは対照的に・・・。


丸い地球をなぞる地理的な距離を横軸とするなら、数十年単位の経過を辿る時間は縦軸だ。
本著の魅力は、単純な横軸に沿った平面の海外探訪記ではなく、著者自身が若い頃訪れた場所を再訪して縦軸の時間を体感して描く立体構造と、文化人類学者ならではの舌鋒鋭い各国の未来への分析にある。

ニューヨークは、ソウルは、パリは、ケンブリッジは・・・・。

終章で語られる自己の見聞に基づく歯に衣を着せぬ歴史考証と国の行方は読み応えがある。
ベトナム戦争、冷戦終結、そして9.11によって、世界では何が変わったのか、変わらなかったのか。

「人は自分の場所と時間を大事にしながらも、異なる場所を知りたいだけでなく、異なる時間を生きたいのだ。居れば行きたくなる、行けば帰りたくなる。二つのあいだで揺らぐのは、人はいつまでも生き続けるのではないことを知っているから、生きている時間をいくつかに分けることで、いくつかの人生を過ごす感覚に浸りたいのだ。」

数行は、まさに憑かれたように旅に出ようとする自分の思いを代弁してくれる。

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自宅、よい旅を [マイハーベスト]

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ノーベル賞ウィークのフィナーレ、平和賞は、タリバンの銃撃を受けつつも敢然と女子が教育を受ける権利を全世界へ向けて発信したパキスタンの16歳、マララ・ユサフザイが受賞。

憲法9条を維持して来た日本国民が最有力候補、とする下馬評もあったみたいだが、当然の受賞だろう。

http://patchouli.blog.so-net.ne.jp/2014-07-25
Johnnyがシャンパン用意して待っとけみたいなことを言っていたが、まあ、ここはペリエで乾杯といこう。
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何だか受賞の根拠がちょっとアヤシいと言われる平和賞は、今年はこれで名誉挽回した感がある。
今もって、平和に暮らすことや平等に教育を受ける権利が当たり前じゃない国はいっぱいあって、その歪みを是正するアピールのために平和賞はあるのだと思いたい。

小春日和の孫の運動会。
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これが平和でなくて何なのだろうと思う。


オランダ領東インド(現・インドネシア)で進駐して来た日本軍の捕虜となったウィレム・ユーケスの手記を読む。

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「よい旅を」(原題:Door Het Ogg Van de Naald/ウィレム・ユーケス著/長山さき訳/新潮社)

今でこそ憲法9条で平和賞にノミネートされたりする日本人だが、かつての蛮行のせいで、今もって解決されない問題を沢山抱えているのも事実である。
その下敷きになったオランダ人の手記が、日本語に翻訳されてこの国で出版されることの意味。

この本において救われるのは、自分を死の一歩手前まで追いつめた日本兵の所行を、当時の占領国の官僚主義組織としての軍に従わざるを得なかったがゆえの仕業として、個人レベルでの悪行とは分けて考察されていることである。

著者は戦前の独身時代を、オランダの貿易商事会社の日本支社社員として神戸で暮らした。
その思い出は古く、美しく、まるでセピアに褪せた大事な写真のように冒頭で語られる。

その思い出が、その後オランダの植民地であったインドネシアにて日本軍によってもたらされた凄まじい捕虜生活の中で、最後まで日本人を憎みきれない一筋の糸となったことは間違いが無かろう。

民間のオランダ被抑留者に対する日本政府の賠償金はわずか一人当たり数百ギルダー(現在オランダ領国での1ギルダーは60円くらい)だったというが、筆者の心の中では謝罪の一応の価値も認められているようだ。
ヴァチカンが、何世紀にも渡ってユダヤ人を攻撃してきたことへの謝罪までに2000年を要したことと考え合わせて、過去に犯した罪への謝罪がどんなに難しいことであるかも思いやった文章が連綿と綴られ、日本人としては頭を垂れて聞くしかない。

この本を読むと、日本軍とオランダ人捕虜との第一義的な関係以外に、まず300年以上オランダに植民地として支配され続け、そこへ進駐してきた日本軍にダブルで占領されたインドネシアの複雑な国家の歴史を思わずにいられない。

アジアで植民地とされた歴史を持たないのは日本とタイだけ。
その他の多くのアジア諸国が、フランス、イギリス、オランダといったヨーロッパの列強国に支配された過去を持ち、そのコロニアルな雰囲気が今年多く訪れた国々の現在の魅力ともなっているような気がするが、かつての支配国との今の関係はいかがなものだろう。

日本では間違った戦争によって苦しんだ人々への政府の謝罪は今もって続いていると思いたいし、またそれを巡って近年隣国と係争も続いている。

植民地化するということと、占領するということの違いは何なのだろう。
(一応調べると、支配国民が移住して主権を完全に握ることを植民地化、支配国民が入植せず、一時的な保護国扱いとすることを占領、と分けてはいるが、時代背景にもより、明確な区別はできないようだ)

インドネシアの人々は、日本の侵略下にあった時期を、その前のオランダの300年の支配より過酷だったと振り返る。

被支配国の感情が、こんなにも大きく違うのはどうしてなんだろう。

私たちが平和な日本でこの本を読む意味を考えたい。

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軽井沢、マリー・アントワネット〜ファッションで世界を変えた女〜 [マイハーベスト]

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夫は軽井沢6:35始発の新幹線に飛び乗り、クリニックへ帰っていった。


昨日合流していた長男一家が帰り、孫達にもみくちゃにされた後の残りの一日を久しぶりで夫婦二人でゆっくり過ごそうと思っていたのに、かなわなかった。
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もちろん夫の休暇の間のバックアップは完璧に当直医を配置して整えて出てきたので、帰らなくても何とかなったはずなのだが、夫は自分の気持ちを抑えられず、山荘を後にしていった。
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数年前不適切な決算書を作成した会計事務所に信頼が置けなくなり、当該会計事務所と税務署を相手に、つい先日の、不本意であまりにも悔しい結果が出るまで、複雑で長く孤独な攻防の矢面に立つことになった。

これまで自分の生き方に迷っても、努力をすれば必ず克服できるという経験則で乗り越えられたのに、コトが法人という別人格を代表する立場で、自分の知識がほとんどゼロに近い分野でその道のエキスパートを相手に戦うことは、まるで碓氷名物の濃い山霧の中で錆びた剣を手探りで拾い、闇雲にふりまわすようなもので、所詮専門用語でねじ伏せられ、心理的物理的に大きな苦痛と損害を負うことになった。

夫が開業して16年。

こんなふうに自分のプライベートを捧げ尽くして仕事に従事している彼を一番身近で見ているからこそ、彼が医療に専念できるよう、経理、労務、その他の雑事は全部自分一人でやろうと思い、そういう体制を作ってきたが、今回はとことん心が折れた。

所詮他人には人ごとで、特にビジネスに関しては、いつも周囲を取り巻いている人間も自分の利益になるようにしか動かないから、親身にこちらの側に立ってアドバイスをしてくれる人が居ない。

この孤独感が一番身にしみた。


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満身創痍で逃げ込んだ山荘で読んだのは、自分とは比べようも無い世界のアイコンについての本。
自信を喪失した心に、それがそっと寄り添ってくれた気がしたのは、その孤独感に僅かな類似性を感じたからなんだろうか。


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「マリー・アントワネット〜ファッションで世界を変えた女〜」(石井美樹子/河出書房新書)

世紀の王妃マリー・アントワネットほど、様々な角度から検証され、題材にされ、言い表され、描き表された人物も少ないだろう。

「パンが無いならケーキをお食べ」

傲慢で浪費家、派手好きで勉強嫌いという輪郭ばかりが取沙汰されるアントワネットであるが、本著によれば、彼女はハプスブルグ家の「戦争は他の国に任せ、オーストリアよ、なんじは結婚して繁栄せよ」という家訓(考えてみればこれもすごいね!)にのっとって、財政破綻する寸前の大国フランスにわずか14歳で差し出された自分の境遇を素直に受け入れ、与えられた人生に忠実であろうとした、むしろひたむきで賢く、邪心を知らない女性であったようだ。

オーストリアからはまるでリモコンで繰るように、母である女帝マリア・テレジアが密偵を使って彼女の言動にいちいち指図を与えたが、それも素直に受け入れ、母の望みを実行しようと努力した。

7年間も夫婦の契りを結ぼうとしない愚鈍な夫に対しても、キレることなく励まし続け、最後には彼の愛を勝ち得て子孫繁栄にも貢献する。

彼女は明らかに夫の皇太子(後のフランス国王ルイ16世)より利発で才能もあったが、女性に政治を担う権限が与えられない時代ゆえ、彼女は陰謀渦巻く敵ばかりの巨大な社交界、ヴェルサイユ宮殿での自己確立として、ファッションとアクティビティに個性を映しとるしかなかったのだ。

彼女は自分の美しさと身分ゆえの影響力をよくわきまえ、見栄で固められたコルセットから女性を解放し、身ごもれないという偏見に鞭を当てて乗馬服で馬にまたがり、虚栄としきたりで膨らんだスカートを捨ててシミーズドレスを流行らせた。

考えぬいた自分のファッションが、翌日には誰かに真似されて消えていくことに気付き、独自のファッションブックを作成して、オリジナルは自分であることを証明したことなどは、現代の意匠パテントにも通じる才気を感じる。

国民が食べるものにも困っている中で、そのような豪奢なファッションに心血を注いでいたことは、後から見れば批判されるべきことではあろうが、彼女の周りには出世と勝ち馬に乗ろうとして、何も知らない彼女に様々な入れ知恵を授ける人々が群がっていたのだから、その人垣の隙間から庶民の生活を垣間みようとすることは、ほぼ不可能であったろうと思う。

彼女は誰かに頼りたかった。

わずか14歳で見知らぬフランスに輿入れし、何が正しいのか、どうするべきなのか、分かるはずも無い。
正当な生き方を教えてくれるのは一体誰なのだろう。

その真っ当な先導者がこのフランスにはいない、信じられるのは夫と子どもと共に断頭台へ上がる道を選んだ数人だけと気付いた時、マリー・アントワネットは敢然と頭を上げ、まっすぐ前を見つめる。

結局信頼して道を問えるのは、自分しかいない。
そのために自分は、賢くある努力をすべきだったのだ、と。

これが同時に、今の私の前へ進む結論でもある。





軽井沢、海外で建築を仕事にする [マイハーベスト]

君に逢う日は 不思議なくらい
雨が多くて
水のトンネル くぐるみたいで
しあわせになる

(略)

君の名前は 優しさくらい
よくあるけれど
呼べば素敵な とても素敵な
名前と気付いた

(略)

今夜君のこと誘うから 空を見てた
はじまりはいつも雨・・・・


昨今の芸能界では珍しく文学的な歌詞を書く人だと思っていたのに、墜落してしまった。

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冬の間にこちらも墜落した巨大な白樺の照明をようやく撤去して、軽やかなスタルクのROMEO LOUIS2機が、山荘の高い天井から吊り下がる。

切り子のようなガラスのカーヴィングから透けて見える、滴るような森の色もなかなかいい。

そして、またしても軽井沢は雨・・・

寒い。

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フォーシーズンズ・コ・サムイで買ったタイの民族衣装は、巨大なステテコみたいな形のしっかりと紡がれた藍の布でできている。

片方の足にすっぽり私の身体が入るくらいだが、ウェストに付いている紐で縛って小柄な女性でも、頑丈な男性でもそれなりにキマる。
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しかし、そんな夏の装いも、もう出番が無い。


東京からやってきた業者さんが4時間を要した照明の取り付け作業の間、読みかけの本をブランケットにくるまってむさぼり読む。

ありがちなハウツー本かとナメてかかったら、そこにこみ上げるような感動があって泣きそうになる。

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「海外で建築を仕事にする~世界はチャンスで満たされている~」(編者:前田茂樹/学芸出版社)

いわゆるハウツー本はあまり読まない。

人のハウツーは私のハウツーじゃないと思ってるから、参考にもしない。

なのにこれを手に取ったのは、同じ境遇のさ中にいる息子を持つ、まあ母親としての軽い興味がまずそこにあったんだけど・・・。

いやいや。

16人の若き建築家たち(日本人15人、フランス人1人。フランスの一人は、いわゆる逆”海外で建築を仕事にした”好例になっている)が、言葉や経済の壁をものともせずに、建築を学びたいという情熱だけに導かれて国境を越えていく16通りのマイウェイは、同じ境遇の息子を持つ母親ならずとも、読む者の心を鷲づかみにするだろう。

彼らはなぜ、うちの愚息もなぜ、自分たちの活躍の場を日本ではなく海外に求めるのだろうか。

そこには、全世界共通、建築業界独特のトップダウンの徒弟制度のようなシステムの存在が大きく関わっているようだ。

コンペや実際の作品や、極端な人は写真集を見ただけで、これはすごいと思った建築家がいたら、まずは自分のポートフォリオを持って渡航し、そのオフィスに押し掛ける(!)
有名なボスは、もちろんオファーも受けず、すんなり会ってくれる訳もないから、毎日毎日、秘書さんにどんなに迷惑がられようとも、日参する。

何日かかるかもわからず、雇ってもらえるかもわからず、もちろん持ち金も限られている若者たちだ。
スーパーで缶詰のミートソースをまとめ買いして、毎日の食料はそれで繋ぐ。
(この彼は、それ以来ミートソースを食べることができなくなったそうだ)

そしてやがて憧れの建築事務所の扉が1センチ開かれる。
秘書が話をボスに上げてくれると言ってくれる。

現地で暮らせるぎりぎりの給料で、模型作りの下働きに雇われる。
言葉はほとんどわからず、何をしなさいと言われたのかも最初はわからない。
だが、作った模型や図面が、言葉の足りなさを補足してくれる。

そう。
彼らが言葉の不自由さを恐れないのは、建築という共通語がそこにあるからだ。

そのうちに、彼らは「自分がそこに居てもいいんだ」という空間を見つけ、やがて「お前が必要だ」という絆を感じ、事務所の中核となっていく。
どの事務所もそんな若者達を抱えた人種の坩堝であることが面白い。

しかしそこで終わらないのがこの業界の特殊なところ、寄らば大樹の陰という言葉は無い。
若者達はノウハウやエッセンスを蓄えると事務所を退き、異国の地に自分の足で立つ準備を始めるのである。

どのボスも所員の独立には非常に寛容で、時には業者への推薦状や出版物の帯を書いてくれたりもする。
これが建築業界のワールドワイドなサイクルである。

彼らの行った国や境遇、また現在のポジションはそれぞれに違うけれど、共通しているのは自分にとってのパーフェクトストーリーをまず持ち、そのダイレクションへ自分の力を信じて一心に進んでいくことだ。
そこには今の若者にありがちな「群れる」という発想がまったく無い。

中の一人が言っているように、彼らはサムライ・ジャパンではなく、ローニン・ジャパン。

素手で夢をつかみ取ろうとする若い建築家たちのボーダレスな実話は、ヘタに作ったサクセスストーリーより遥かに大きな振幅を持った感動を呼び起こす。



震災の1週間後だった次男の大学院卒業式は行われず、学長のメッセージだけが新聞に掲載された。

詳しくは忘れたが、この大きな苦難を自分の人生に刻んで人の役に立つ仕事をすることこそが、この年にこの大学(院)を卒業する者の務めである、というような内容に涙がこぼれた。

その年、次男は震災前に内定していた東京の事務所が立ち行かなくなり、あわや院卒プータローになりかけたところ、同じ大学院で学んだベトナムの今のボスに誘われて、海を渡っていった。

日本に居なくてよいのか、これからキャリアをどう積み上げていくのか、親としては不安なことばかりだったけれど、彼に迷いは無く、また当時選択肢も他に無かったように思う。
その後2020年東京オリンピックが決まり、今や日本の建築業界は活気に沸いているけれど、ベトナムで3年の経験を積んだ彼の目はすでにヨーロッパを捕らえている。
彼が自国に戻って来ることはないだろう。

一人旅だ。

はじまりは、雨。

この先雨が降る日もまたあるだろうが、頑張れと、心から言いたい母である。

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自宅、潮の騒ぐを聴け [マイハーベスト]

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恒例の花屋さんの夏のご挨拶。
昨秋逝ったクロの遺影を抱くようなカサブランカ。

一通りルーティンのエクササイズ(フラ→ドラム→英文読み込み→最近+のラジオ体操)が終わり、後は寝るだけという、例えば夫が当直の夜に、ソファに二匹と埋もれてこっそり一人で嘗めるアルマニャックのような、極上の味。
そんな本を、部屋の中の澱となったカサブランカの芳香の中で大切に大切に読み終わる。

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「潮の騒ぐを聴け」(小川雅魚/風媒社)

読書はスピードが命と普段は思ってるが、一行一行、一語一語、作者の吟味した言葉を噛みしめながら読む本も、たまにはあっていいと思う。

そのためには、言葉や文章の精度がかなり研ぎすまされてないと、またその言語が自分のフィーリングにぴったり一致してこないとダメなんであるが、まさにこれはそんな珠玉の一冊だと思う。

内容は、三河人の著者(いったい著者が何者なのかどうしても知りたいが、私と同年代の英米文学者、ということしか分からない)が人生で出会って来た飲食交遊記であり、それだけを聞くと割と巷にあふれたエッセイ的なものを思い浮かべるが、その出会ったものへの感性と食材への視点が群を抜いている。

夏の夕方、港(はまけ)でウナギを釣っているのは、還暦がらみのトム・ソーヤーとハックルベリーたちばかり。私の思い出を収納した納屋は、いまは記憶の中にしかない。
記憶のなかで祝祭は果てることがないけれど、最初のひと皿(プリモビアット)はいつも、とれたてのシコの団子なのである。



抜粋として適当な段落かどうか分からないけれど、こういう一文一文に、著者の感性の波紋を受信する。
著者は生まれ育った三河地方で、当時よく採れたイワシの一種の「シコ」を懐かしんでいる。
この段落は、言ってしまえば、
夏の夕方、港の桟橋でうなぎなどを釣っているのは、60歳前後の人たちである。当時あった納屋ももう無い。ご馳走の記憶は多々あるが、やっぱり一番なのはシコの団子である。
という平坦な内容なのだが、著者の手にかかればなんと叙情に満ちた美しい思い出の風景に変容することか。。

言い表し方次第で、その文章の後ろの記憶が幾重にも広がることを何より鮮明に証明してくれてる。

著者は英米文学者とあるが、秀逸な翻訳の時に必要な引き出しは、一般人のそれより何倍も大きな深い収納力を持つものなのだろうと想像に難くない。

何事にもその道を極めた人のインジケーションは素晴らしい。

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マダガスカル香料視察ツァーの打ち上げ。
丸の内の高級タイ料理レストラン、サイアムヘリテイジ東京にて。

タフな旅ほど思い入れが深いもの。

参加者は日本における香料を極めた人たちだから、たかが個人的気興味の域を出ない私などはなかなかそのテンションについて行けない場面もあるが、悲惨なロストバゲージも超過密スケジュールも、今となってはパッタイの具になる。
全員が戦友のようなシンパシーで結ばれた気がする。

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宮古上布の薄物と紅型の帯で参席。
夏の着物は、「あり得ない」という意味で、心を上質に導いてくれる。

翌日、茅の草履をスニーカーに履き替えて、ドラムレッスン。

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リムショット、慣れてきたと思ったら、スティックが折れそうだ。

ボサノバの季節だなあ。


自宅、カスバの男 [マイハーベスト]

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アタシは絶対散歩になんか行きませんから!
(キッパリ)

ハイハイ・・・わかってますよ。
暑いってことでしょ。

だけど冬だってアナタ、行かないでしょ。


暑いけど、お鮨なら銀座へ食べに行く。
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ミシュラン一つ星、鮨青木。
http://www.sushiaoki.jp/

銀座の鮨屋という敷居の高さの割に、ちょっと垢抜けないやさぐれた感じが独特だ。

よくぞ日本に生まれけり、とお鮨食べるたびに思う。


そのお鮨大好き日本人の一人一人が、今年のノーベル平和賞にノミネートされていることをご存知か。
そう、これ読んでるあなたもです。
http://en.rocketnews24.com/2014/04/14/japanese

事の発端は座間市の一主婦が、戦争を放棄した憲法9条をノーベル平和賞にノミネートしようと思付いたことだ。
この主婦、いったい何者なんだ。発想がすばらしい。

彼女は7回もノーベル賞選考事務局にメールを出すも、平和賞のNominee(受賞候補者)は人かグループでなくてはいけない、と言われて却下されてしまう。
憲法のような人格が無いものはダメなんですね。

しかし、彼女のアクションに賛同した日本の有識者が集まり、ノミネート実行委員会のようなものを立ち上げる。
そして、平和賞を受けるべきは、憲法9条を守り、70年間どの戦争にもまったく加担せず平和な日本を維持してきた日本国民一人一人であるはずだ、という趣旨のもとにノミネートし直したところ、見事選考通過。

かくして10月10日の発表でもし本当に9条が受賞したら、賞金は1億円だそうだから一人ひとりには行きわたらないけど、日本国民一人一人が履歴書に「2014年ノーベル平和賞受賞」って来歴を書き込める権利を持つようになるんですよ。

笑っちゃうけど、ちょっとシニカルで楽しい。

授賞式には安倍さんが代表で行くのかな。
どんなスピーチをするのかな。
9条は守っていくけど、解釈だけ変えますとか言うのかな。

他に平和賞にノミネートされているのは、ローマ教皇フランシスやパキスタンで女性や個人の権利を訴え続ける16歳のマララさん、ISSとからしいから、ほとんど受賞の見込みはないにせよ、(やはりノミネートされている)プーチンよりは可能性高いんじゃないか、とJohnnyは言ってる。

10月10日、シャンパン用意して待ちましょう。

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ああ、この世界、惹きこまれる。

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「カスバの男~モロッコ旅日記~」(大竹伸朗/集英社文庫)

ガイドブックではなく、どこへ行って何を食べました的な個人記録でも断じてない。
バラ色のマラケシュとか、憧れのリヤドとか、このアフリカの最北端の国に人を惹きこむようなよくある美辞麗句も無い。
名所旧跡の案内も無い。

読む者には、彼がいったい今どこを歩いているのかわからなかったりさえする。

魅了されるのは、彼の独特の視点と価値観と、モロッコの混沌とのケミストリー。

著者は画家。

彼の眼は、スークに並ぶ美しく妖しげに織り出された絨毯などではなく、その路地裏にあるゴミ捨て場や、何の秩序も無くどんどん重ね貼りされた壁のポスターへ流れていく。

ぶちまけられた生卵、安っぽいプラスチックの籠の四隅に菓子棒を突き立てて売っている「わかってないのだが、わかってるガキども」。

この国で「再利用」という言葉はない。
ガソリン缶を打ち伸ばして作ったドア、肥料袋のプラスチックを裁断して作った買い物かご。

この国で何かが壊れた時、それが別のものに使われる明確な答えを持っていなければ、それは永遠に放置される運命にある。
そして砂に埋もれ、風景の屍の一部となる。
人間の思惑が入る余裕なんて無いのだ。
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いちかばちか。
是か非か。

リサイクル、やらないよりはやったほうがいいなんていう甘ったるい考えは、先進国の満たされた生活の中から出てくる、土台、歪みをを持った必然性の薄い発想なんだって思い知る。

著者の美意識とモロッコの風俗がぴったりマッチングした洒脱な感覚が素晴らしい。

心底、羨ましい旅である。
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六本木、長女たち [マイハーベスト]

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べっちゃんとメグが朝の散歩に庭へ出てローズマリーの茂みをくぐり抜けるので、遊びに飽きて部屋へ戻って来た二匹の華奢な体躯からえも言われぬハーバルな香りが立ち上る。

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いい季節になった・・・と言いたいところだが、暑すぎるだろーここ2、3日。

息子達が幼稚園の頃、山形の北村山公立病院に同時に派遣となってほぼ寝食・子育てを共にした大学医局の先生の奥様達とは、夫達がそれぞれの居場所を定め、子どもたちが独立した今もお付き合いが続いている。
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「会おうよ」と決まった2週間前は5月の爽やかな風が吹き渡る頃だったので、どこかおしゃれなガーデンテラスでランチがいい、ということでグランドハイアットのテラス席を予約したのだが、本日東京はまさかの30℃越え。
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それでもテラス席で頑張るツワモノもいたけど、オバサン3人は這々の体で涼しいバー席への移動をお願いする。

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ボリューミィでしかも手を抜いてないハイクオリティのサンデーブランチに舌鼓を打ちつつ、ロゼの冷やしたシャンパンを1本を空けてとりとめなくしゃべり続ける。

12:00集合、2回場所を変えて解散は21:00。
実に9時間しゃべり倒す。
よくぞ女に生まれけり、である。

五十女が集まれば必ず行き着くテーマは親の介護と結婚しない娘。
ある意味、今、最もトレンドなテーマ。

二人に会うために六本木に到着する寸前に読み終えたのが、まさにその濃厚なエキスを掬い上げ、世に問うたこの本であった。

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「長女たち」(篠田節子/新潮社)

自分の介護をさせるために娘の結婚を阻む認知症の母親との葛藤を描いた「家守娘」。
父親を孤独死させた重荷を背負いながら亡き恩師の後を継いで、ヒマラヤの貧村へ医療活動に出向く女医を追う「ミッション」。
自分が生き残るために長女の身体の一部を当然のこととして提供させようとする母への憎悪を究極まで描いた「ファーストレディ」。

最初に生まれたがゆえに、しかも世話や介護を担える女性というだけで、決して長男や他の弟妹には託されない、親の人生の反芻と当然の介護の期待によって自分の人生をかき乱される長女という存在。

2年前に亡くなった母をありがたいと思うのは、認知症という病魔に絡めとられていく底なし沼のような恐怖を自覚しながらも、長女である私に徹底的に迷惑をかけさせない意志を貫き通して旅立っていったことだ。
母は薄れゆく認識の中で、自分に襲いかかる病魔から必死に私の人生を守ってくれたように思う。

3章に分かれた本著の中で一番印象に残ったのは、2章の「ミッション」。
文化に取り残された山村で、村人の誤った食生活を正して寿命を延ばそうと先進医療を持ち込んで啓蒙活動に従事する「長女」が、敗北する瞬間。

村人の短命の原因は、高塩分・高脂肪の日常食。
働きつつあっけなく40代、50代で死んでいくことを前提に世代が上手に交代している村においては、先進国家が悪とするその食習慣こそが彼らの生活の知恵だったかも知れない。

当然のように病人の寿命を延ばすそうとNPOの医師達が先進国の価値観と医療をその村に持ち込んだ結果、仕事ができぬまま苦しみながら生き長らえている老人が増える。
村民の寿命が数年延長したというデータは、実は医師側の自己満足に過ぎず、村民には何の意味もなくむしろ迷惑である。

そのうちに村に入った医療関係者が次々に謎の死を遂げる。

村を去る女医は、その仕事のために父を孤独死させる結果を招いた人生にどう折り合いをつけるのか。

ただ長生きをすることが本当に幸せなのか。

長寿国日本の問題の縮図がそこにある。



マウイ、セラピスト [マイハーベスト]

そんな。

ここであの人に会うなんて。



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ヨガマットでできたビーサン。
http://www.sank.com/

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ストライプのサンドレス。

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一日中、スナックタイム。
シャンパン付き。

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お約束のアングル。

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お約束のサンセット。

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お約束の白ワイン。

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完璧な夜食。



完璧にひとり。
そう。
完璧にセッティングしたはずだったマウイでの休暇。

なのに、私が一番触れたくない傷をあの人はざっくりと両手で広げ、俺はまだここにいるぞ、なぜ俺を連れて行かない、と意識の中に押し入ってくる。

本を投げ出し、ベッドに大の字に寝転がる。

そうか。

自分だけいい思いするなよ、と。
そう言いたいのね。


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「セラピスト」(最相葉月/新潮社)

どこまでも広がる海と同じくらいの量を与えられるであろう自由な時間を、胸いっぱい抱きしめるために読むのは、手探りで精神疾患に向き合う精神科医や心理療法士を追うルポ。
時間に追われる日常の中で読むには、引きずられそうできついと思った本である。

主に精神医学界のドクターズ・ドクターと言われる中井久夫の統合失調症の研究過程を追ったもので、総合的には日本の精神疾患への治療と取り組みの歩みととることもできる。

セラピストとは、勉強してきたように、広い意味での「療法士」を指し、現在では主に精神的な疾患へアプローチする人々のことをいうと解釈する。
我々アロマセラピストも広義においては香りをツールとしてクライアントの精神を癒すという意味でセラピストの一員といわれるが、臨床心理を勉強していないので「治療する」「カウンセリングする」という言葉は使えないことになっている。

厚労省の調査によれば、国際基準でいう「気分障害」に含まれる鬱病や双極性障害の患者数は1999年から2008年の9年間で2.4倍の104万1000人と急増しており、それを受けてかカウンセリングや心理学を学ぶ若者が増えて、いわゆるカウンセリングブームというようなものが生まれているという。

精神科医とカウンセラーとの棲み分けは、大きくは病気を医師が、障害をカウンセラーが受け持つともいわれるが、そこまで区別が明確なものでもなく、現場は混乱しているようだ。

日本にカウンセリングという概念が導入されたのはいつだったのか。

そこに話しが遡る時、今マウイで眼下に見るのと同じ太平洋を望むJR大甕駅に隣接するなだらかな斜面に建つ、茨城キリスト教学園が登場する。
その学園こそが父が生涯勤務した場所である。

当時はアメリカ人宣教師達の、映画に出てくるようなフィフティーズ風戸建住宅が広大な緑の敷地に点在し、食堂は軍から払い下げられたようなカマボコハウスだったと記憶している。

母が高校の教師で昼間は不在だったので、父はよくお世話係のおばあちゃんが来ない日は幼い私をそこへ連れて行き、自分の仕事の間中、土足でOKの白い網戸との二重ドアの向こうのアメリカンな世界へ、私を預けるのだった。

父は初代学長の宣教師ローガン・J・ファックスらとともにこの学校を立ち上げ、主に経営に携わり、60歳の定年を迎えるまで当時の日本の文部省との折衝や処理管理を行った。
ミスタ・ファックスが帰国してからも、結婚式だ、父上のお葬式だ、と何かとアメリカに出向いて行ったことも記憶している。

そのローガンおじさん(と私は呼んでいた)こそが、カウンセリングの代名詞といわれたカール・ロジャースのカウンセリング理論を日本に紹介し、日本初のカウンセリング研究所を設立した人物である、ということをこの本で私は初めて知る。

そう言えば、幼心にも父がよくカウンセリングという言葉を母や知人に解説し、どうもそれが悩める学生達の相談にのることらしいぐらいまで私は理解していたように思うが、それから先へ進むことは無く、父もあえて教えようとも思わなかったらしい。

日本に箱庭療法を紹介して日本におけるカウンセラーの祖となった河合隼雄の自伝『未来への記憶』には、「私は父を憎んでいるんです」という相談者の記録が残る。
自分の心を読まれたようではっとする。

父は戦後の混沌とした世の中で、両親を亡くし、大した学歴も無いのに一人で宣教師達と大きな仕事を始めた。
それはそれで今考えれば立派なことであったが、両親から自分がどう育てられたかの自覚が持てないまま父親になり、いつまでも、多分今でも、娘の心の中に土足でずかずかと入り込んでくる。

その自分本位の足跡に、私も、そして母も、どれだけ苦しんできたことだろう。

父は自分の最も意気盛んな時に身につけたはずのカウンセリングというテクニックを自分に生かすことは無く、母の死後コントロールを失って人生を投げ出してしまった。

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茨城キリスト教学園を取材した「日本人をカウンセリングせよ」というその章のタイトルに、父が重なるマウイの夜である。




自宅、アマン伝説 [マイハーベスト]

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アマンの名が、新しいリゾートの代名詞のように、私の脳裏に擦り込まれたのはいつからだったろうか。

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「アマン伝説〜創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命〜」(山口由美/文藝春秋)

経済的に許されさえすればいつかは泊まってみたいラグジュアリーホテルが、NYやパリやロンドンのハイソサエティな大型豪華ホテルだと信じられていた時代に、たった20棟ほどのアジアの片隅の海辺に建てられたコテージ群を最高級のリゾートにランクして日本に紹介したのは、バブル期の最中、80年代のトレンドセッターであった作家・田中康夫や景山民夫であった、と本著にはある。

そうだったのか。

あの頃、ラグジュアリーという言葉が、パリのリッツの大理石の床をハイヒールで歩くことではなく、東南アジアの浜辺の砂を裸足で踏みしめることに似合うという価値観が、ものすごく新鮮だったのを何となく思い出す。

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多分どこかの雑誌で仕入れたそんな「伝説」、それは、いかなるゲストのリクエストに対してもノーと言わないOne to Oneの精神、人が要らないという不便な土地に建てられた一見素朴な、しかし限りなく質の高いデザイン性を持った建築、東南アジアの安い人件費をフルに利用した隅々まで行き渡る人海戦術などは、ずっとずっと私の頭の中を支配し続けた。

ようやく息子達が二人とも大学に入って経済的・時間的に余裕が少しでき、最初のアマンリゾーツであるプーケットのアマンプリに出掛けたのがたった15年ほど前のことである。

名高いブラックプールはやや古びて漆黒のタイルの角はやや丸いようにも思えたが、あのむんとするモンスーン気候に抱かれた島の崖上にあって、ガラスも蚊帳も網戸も無い海風が吹き抜けるオープンな建築ながら虫一匹見当たらない快適さは、ゲストの視線から頑なに外れて庭の剪定や消毒作業をする無数の現地人のスタッフに支えられているのだろうと、静かに感動したことを覚えている。
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(写真はすべて派生ホテル、シックスセンシィズ系列Six Senses Ninh Van Bay)

その後数年経って、カンボジア・シェムリアップのアマンサラに投宿した時は、アマンの代表的な建築家ケリー・ヒルデザインの端正なアジアン・ビューティに圧倒され、私はついに「アマン・ジャンキー」の一人となった。

本著は、ジャワをルーツに持ち欧米で高度な教育を受けたアマン創業者のエイドリアン・ゼッカを中心とした、新しいリゾートホテルビジネスの系譜とカテゴライズしてもいいと思う。
だから往年のトレンドセッター達が伝えたややミーハーなトロピカルリゾートのあるある集だと思って飛びついた私のような読者には、かなり読みにくい厚みであるはずだ。

実際、哲学系列の本並みに、読み上げるのに手間取ってしまった。

しかし、アマンリゾーツがなぜ世界で唯一3つものアマンを開業させたのがバリ島であったか、その魅惑的な建築デザインがスリランカ出身の建築家ジェフリー・バワに端緒を発する”ビヨンド・バワ”の流れを汲んでいること、そして数々の熱帯アジアの辺地にたたずむ宝石のようなホテルを作ってきたアマンリゾーツが次の決戦地と狙いを定めたのが、なんと大都会東京のど真ん中大手町であること(大手町1-6計画、通称東京プライムステージに2014年開業予定)への流れは、ミスタ・ゼッカの人生観の変遷を見るようで興味深い。

そしてそのゼッカが作った流れは同じアジアに位置する日本にも確実に混流しており、私のうっすらとした憧憬はその端々を拾い集めていただけなんだなあと思う。

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今度のGWは、バワとアマンの接点を見る旅を狙っている。



自宅、トゥルース 闇の告白 [マイハーベスト]

東京、開花宣言である。

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初夏を思わせる今日。

何でも靖国神社の標本木に5輪以上の花が開いたら晴れて開花宣言するんだそうで、「宣言」ていかにも物々しいではないか。

普通は一日に1回しか見回らない気象庁の職員が今日は2回見回って、その2回目に5輪の花を見つけたそうである。
標本木の周りにはTV取材陣と見物客が群れをなし、「宣言」されると一斉に歓声と拍手の渦である。

靖国神社がこんなに注目を集めるのは総理参拝以来である。
東京タワーも一晩だけ桜色に染まるそうである。

「電報を打て」と地方の気象台係員が言っているのもニュースで流れる。
イマドキ電報って。
メールじゃなぜ駄目。

たかが桜の花が開くのを国中が固唾をのんで見守り、開いたとなれば国を挙げてのお祭り騒ぎとなる様を外国人が見たら、日本人て完全に平和ボケしてんなーと思うんじゃないか。

こんな国、嫌いじゃないです、私。

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我が家の犬たちも桜祭りの出で立ちである。

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なんだ、なんだ。
ウチは犬たちまでフラダンスなのかと、夫のぼやきが聞こえそうである。

夫はクリニックに詰めていることが多く、私は私で年末からずっと何かの練習や稽古で日曜は家を空けていたが、ようやく二人揃ってソファに長々と寝そべってCATV映画三昧の日曜を過ごす。

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どうしてもこの冬最後の熱燗が飲みたくて、コンビニで買ってみました、日本酒代表銘柄。
まるで飯場のオッサンである。

でも、かしこいなー、これ。
チンするだけでちゃんと美味しい熱燗ができるんだもん。

しかしおおよそ長閑な春の風景とは裏腹な映画をそこで観る。

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「トゥルース・闇の告白」(脚本・監督ラリーサ・コンドライキ/主演レイチェル・ワイズ/2010年ドイツ・カナダ)

オフィシャルサイト
http://www.thewhistleblower-movie.com

戦後の荒れ果てたサラエボに、人道支援部隊の一員として派遣された女性警察官が見たものは、ウクライナから人身売買によって慰安婦として連れてこられた少女たちの悲惨な実態。

日本に居ても遠くに近くに見聞きするこの闇が、実話に基づいたこの映画においてなお深いのは、その仕組みに資本主義国の巨大企業と平和維持機構であるはずの国連が絡んでいることだ。

独立を果たしたはずのウクライナの一部が今どうしてまたロシアに戻ろうとしているのかとか、世界事情に非常に疎い私でも、その背景にはこれが事実である日常が横たわっていることに薄々気付く。

Nothing is more dangerous than the truth.

これが実話だというところがさらに重い。

この映画が日本での劇場公開がされなかった理由はなんだろう。

酒が苦い。

自宅、地図と領土 [マイハーベスト]

世の中には自分を甘やかしてくれる人がたまにはいるもんである。

スイーツはその意味のまま人間を甘やかすものだと思うので、自分を削ぎ落していきたい時は決して口にしない。

ホイケという重荷を下ろして、ちょっとは自分を甘やかそうという気分になった時。

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どう切ればいいか迷うほどの広域面積サーフェス(きたない切り方ですみません)。

あこがれのトップスの座布団サイズケーキを携えて、ホイケをこっそり観戦(?)に来てくれたI 田さん、ありがとう!
チョコレートクリームの海に溺れて、人格とろけ出しそうです。



やり始めると止まらなくなって時間を費やしてしまうのでしばらく我慢していた数独。

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昨夜はほぼ徹夜でやり続ける。
縦横熟視してひらめいた数字をひたすら升目に埋めていく単純作業がいとおしい。



興が乗るとこれまた止めて眠りに落ちる勇気を出せず、ひたすら時間を消費してしまう活字の扉も開けてしまう。

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「地図と領土」(ミシェル・ウェルベック著/野崎歓訳/筑摩書房)

主人公であるジェド・マルタンは、ミュランの地図を(!)撮った写真で世に芸術家として登場し、その後写真をもとに各界の巨匠を描いた肖像画で億万長者となる。
しかし彼は本著においては現代アート評論のナビゲーターでしかない。

彼に関わるさまざまな人物が、彼への関与の中で実名で独自の芸術論を展開する。
一番仰天なのは、著者であるウェルベック自身が実名でジェドに一番近い人物として登場し、彼に深く芸術論を植え付け、最後には残忍な殺人事件の被害者となって舞台から消えていくことだ。

偏見かも知れないが、アート論がからむ時にはいつも、フランス人の意地というか誇りというか、多くの芸術家や思想家を排出して世界の文化を牽引してきたのは我々なのだという独特のテンションを感じる。
本著もご多分に漏れず、そんな匂いがぷんぷんする。

本著は、登場させた自らを頭部を切断された細切れの肉片に切り刻んだミステリーが本筋ではなく、著者のアート持論総覧と言ってもよい。
なかなか興味惹かれる。

コルビュジェを否定しつつ(これ、フランス人としては異色なんだろうか?)建築家として成功したジェドの父が、まるで気軽な小旅行にでも出掛けるように、50万ほどを支払ってあっさりとスイスへ行って安楽死を遂げてしまうところが、個人的には最もリマーカブルだったところ。

現実と虚構の間を彷徨いながら、異色のアートカタログを体験したいなら是非。


ふじみ野、永遠の0、3.11 [マイハーベスト]

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春は名のみの風の寒さや。

仕事場のトリートメント室の窓に映る葉影も、どこか薄ぼんやりとして春のシルエットである。

なのに!

この寒さはどうですか!

大丈夫ですか!お花見?

もう準備が間に合わないので計画しちゃいましたよ・・・・。

遅いのは春の歩みだけじゃない。

「私もまだ観てません」という仕事仲間のセラピストと二人完璧出遅れて、バブル弾け飛んだ感のある『永遠の0』、観て参りました・・・・
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去年から大変な話題になりつつも、そして取引先の信用金庫の支店長が「これまでの人生で一番良かった映画!!!」と絶賛に絶賛を重ねるのを毎回右から左へ聞き流しつつも、どうしてもシアターへ足が向かなかったのは、「絶対泣かせてやるわよ」という制作側の意図が見え見えだったのと、単純に第二次大戦モノが好きじゃないのと、いろんな話を聞くと「どうしても感情移入できなかった」というヒトも多かったせいだ。

しかし・・・

自分でやらないくせに批判だけする、というのは、私が最も恥ずべき行為としているところなので、同調者を見つけたところでエイヤッと出掛けて行く。

例によって近所のイオンシネマズの一番遅いレイトショー。
旬を過ぎた演目の客席には、我々以外、途中でしょっちゅうどちらかがトイレに立つ一組のカップルのみ。

結果、想像のとおりでした。

トップガンとアルマゲドンを一緒にしたような盛り上げ方。

ストーリーがストーリーなので、要所要所ではほろりとする。けど・・・・

どうしても、泣かせてみしょうホトトギス(なかせるの意味が違いますね)な感が鼻について。

単純に坊主頭の岡田准一はカッコいいですが・・・


このところ前述以外にも、クリニックではかなり危険な状態の搬送ケースが相次ぎ、夫は毎夜のように、温かいファミリールームから引きずり出されるように極寒ロードへ車を出し、クリニックへ向かう。

そんな時はいつも、ガレージに吹き込む怒気を含んだ北風の中で、夫の車のテールランプに心の中で最敬礼をして見送り出す。

頑張って。
あなたの手しか患者様あるいは新生児の命を救えるものは無いのです。

特攻隊の出発を見送る時のあの最敬礼は、きっと言われたものではなく、最後の綱を託す人に対して自然に出る所作なんだろうと、こういう時、思う。

折しも3.11。

直後、高速走行中に、 東北へ向かうのであろう「災害派遣」の白い襷をまとった自衛隊のトラックを、心の中で最敬礼しながら見送ったことを涙に濡れながら思い出す。






自宅、スノーグース [マイハーベスト]

癒着で内反。
(胎盤癒着、子宮内反症。どちらも大出血を起こす可能性がある)

夫の電話でゾッとした。

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土曜なんだから、飲もう、飲もう。

今夜の当直はK先生だもの。

怒濤の1週間が終わって、今夜は何が何でも飲みたい私がどんなに誘っても、夫は気になる患者さんがいる、と決してグラスに口をつけない。
K先生がまだクリニックに到着していないのが気になっているようだ。

21時近くになって夫は遂にしびれを切らしたようにクリニックに戻っていき、私はひとりで白ワインをボトル半分空けたところで取り残される。

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遊んでもらえると思った犬達も取り残される。

夫が開業して以来、我が家の団らんはこうしてたびたび寸断される。

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家に残された者にとっては、電子ドラムなんか結構いいお相手だったりする。

夫の直感は当たって、相当難しいお産だったらしい。
当直を忘れてお出掛けされていたK先生に夫が代わっていて、結果的にはよかったってことだ。

自分のクリニックか、他人のクリニックへ手伝いにいっているかの激しい温度差。
いつもはだらしなくて腹の立つことも多い夫に、「パパ、オトコだねっ!」と尊敬のラブコールを贈りたいのは、こういう時である。

自分の仕事にどれだけ責任を持って真摯に取り組むかで、オトコの価値って決まると思う。
(あ、あと声の低さね)

そ、酔っぱらいの女房のペースになんか乗っちゃいかんのです。

だいたいこの二つを比べることは正しいのかと思うが、よく「仕事と私とどっちをとるの」とツメ寄る女がいるみたいだが、仕事に決まってんだろー、と私、比べるような女には言ってやりますよ。

閑話休題。

ポール・ギャリコがマイブーム。

スポーツライターを経て小説家になったという変わり種。
第二次世界大戦を経験して、人間と動物の触れ合いを独特の視点で描き出す。

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「スノー・グース」(ポール・ギャリコ著/矢川澄子訳/新潮文庫)

前回のマクラウドの「冬の犬」にも似た、荒涼とした冬の風景がまぶたの裏に投影される。

身体に不具を抱えた一人の男の孤独と、その生き様をひそやかに見つめる少女、二人に助けられた傷ついた白雁。
戦争を背景にした悲しいおとぎ話しのように三者の人生が絡み合う。
短絡的に日本の「つるの恩返し」を思う一瞬もある。

男は戦争から戻らない。

ページ間から指に冷たさが浸みてくるような背景描写とは裏腹に、温かい涙が全身を濡らしてやまない。


イギリスのプログレッシブロックバンド、キャメルがこの作品からインスパイアされて作ったというバンド代表作。
(wiki受け売り。プログレッシブロックバンドってなんですか?)


南青山、BODY & SOUL [マイハーベスト]

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結局、ブリザードな土曜日の夜中に発つはずだった夫の飛行機は、9時間遅れの翌日午前10時半にようやく離陸したそうだ。

もはやお気の毒としかいいようがない。

空港内は昼間から足止めされた出発待ちの人たちであふれ返り(TVに映される映像を見て、さすがに心が痛みました)、24時間空港という割には22時半でほとんどのイートインやレストランが閉店し、空港内のコンビニやショップからも食べ物が消え、夫達はラウンジにも入れずベンチで一夜を明かしたそうだ。

オランダやシンガポールの、ホテルはもちろん映画館、カジノまで併設したハブ空港と比べると、日本の空港あまりにも懐が狭すぎる(懐が広いっていうけど狭いっていうのかな?)。

こういうふうに天候で足止めを食らう確率って空の便は非常に高いんだから、そうなった時に飲まず喰わずで冷たい床に横にならねばならない人が出ないような設備や対応を考えとくべきじゃないの、空港。


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しかし、夫が飛び立ったのを確認するや否や、私は犬達をスタッドレス履いた車に乗せ、移って参りました、千鳥ヶ淵。
関越と外環は雪で通行止めだったので、一般道でトロトロと。

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埼玉ほどじゃないけど、まだ都内にも残雪が。

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一軒家と違ってマンションはすぐ暖まり、コンパクトな幸せをあっさりと提供してくれる。

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まずは私一人のプチ・ホリデイに乾杯する。

皇居脇にあるだけに、都内のどこに出掛けるにしても15分以内という夜遊びにはもってこいの好立地、千鳥ヶ淵を拠点に、夫の留守中毎夜友人知人と飲みに出る不良妻。

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一夜知人が誘ってくれた青山のJazz のライブハウスへ。

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いやー、大人の空間だなー。

立ちっ放しでワイワイ叫ぶ若者のライブもそれはそれで盛り上がって楽しいんだが、同年代のシルバーカップルがしっとりとワイン飲みながらジャズに耳を傾ける上質な空間で、ジャズメンの研ぎすまされた感覚とテクニックを五感でキャッチするってサイコー。

もう病みつきになりそう。

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ひたすら見つめてしまったドラムのセッションは、私がトコトコ叩いているのと同じ楽器だとは到底思えん。

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さあ、夫は今朝6時に羽田に到着、そのまま本日の診療にあたる。

私も帰ります。

自宅、ユーミンの罪 [マイハーベスト]

ユニクロのブラトップを捨てる。

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LA PERLAのブティックでサイズを細かく測り直して、ほろほろと指の隙間からこぼれ落ちそうな繊細なレースのランジェリーをあつらえる。

女子力という言葉は使いたくないが(使えないが?)、ストレッチ布で胸を潰して押さえる便利さは、女性らしい身体のラインを優しく覆おうとする気持ちまで潰してしまう。

何かが自分の中で変化していると思う。

自分の意志と足で人生を歩ける時間があとどのくらい残されているのだろう。
1年かも知れないし、数年かも知れないし、母がそうだったようにまだ何十年もあるのかも知れない。

30年以上ほとんど変わりがない156㎝、39kgの57歳。
血圧はちと低めだが血液・尿検査の異常はなし。
最近、目眩が頻繁にあり。

55歳を機に、いっさいの癌健診と保健機関の健診を止める。
子どもたちが独立すれば、私の責任の9割は達成されたも同じこと。
私は自分で人生の長さを決めていい時期になったんだと思う。

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今を基点に、この先は100%自分でマネジメントする覚悟があるが、比べて駆け抜けてきた過去はなんと感傷的で他力本願で「人ごみに流されて」きたのだろうと時折回想する。

その淡く切ない部分を、ユーミンという同世代のカリスマを通して見事に蘇らせてくれた一冊。

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「ユーミンの罪」(酒井順子著/講談社現代新書)

辛口のエッセイで定評があり荒井由実の高校の後輩でもあるという著者が、ユーミンの歌がなぜこんなにも我々世代の心の襞の奥深くまで浸透したかを、リリースした20枚のアルバムを社会情勢の流れに乗せて紹介しながら独特の視点からアナライズする。

この比較が正しいかどうか分からないが、世の中年男性(夫含む)にとってクワタが世代のシンボルなら、ユーミンは当時絶対的な我々世代の女性のミューズであった。
この本を読むと、1956年生まれのワタクシと1954年生まれのユーミンとは、もちろんただの一点も接点は無いが、まさに同じ時代をリアルタイムで一緒に駆け抜けていた戦友だと大いなるシンパシーを覚える。

ユーミンがデビューした1972年は田中角栄が初めて首相になった年。
彼女は多摩美大の1年生。19歳であった。
昨年公開されたジブリ映画「風立ちぬ」の主題歌になった「ひこうき雲」は次年度のデビューアルバムに収録されている。

19歳のユーミンの歌はニューミュージックという言葉を表舞台にたたき出した。
彼女の歌の何が「ニュー」だったかと言えば、それは演歌よりニュー、歌謡曲よりニュー、そしてフォークよりニュー。

特に情念や情勢を歌った一定のスパンの感じられる従来の歌に対して、「瞬間を切リ取る」、つまり刹那的なものに対する彼女のセンスはほんとうにほんとうにニューだったのだ。

紹介される20枚のアルバムは、まだ国民皆結婚時代(この本では酒井氏自身のこんな言葉のセンスも必見です)下で女子はステイタスの高い男をボーイフレンドにすることを第一の命題としていた(まさに私はこの時代大学生活を送った)から、雇用機会均等法制定(1985年)という女子の世界観を根底からひっくり返す歴史的変化を経て、世がバブルに突入していく「祭りの時代」、そしてバブル崩壊の泡沫の中にうっすらと将来を予測するというピリオドの中に収まっている。

その時代背景を、ある時は彼の車の助手席で、ある時は苗場のスキー場で、ある時はドルフィンの海の見える窓から眺めている女子の目線は、激動の周囲に流されず、常に一定である。

運転する男性の横に座ることによって、その男性の最も重要な女性である幸せに浸る「助手席性」。
ドロドロ不倫相手のベッドに、パールピアスの爆弾仕掛けていつの間にか自分がさらりと優位に立っている「除湿性」。
ブランドものに身を固めて自分をフッた男を見返すはずが、その日に限ってやっすいサンダル履いてきちゃった「失敗の可愛らしさ性」。

そう、自分でもやってるはずのそんな他愛無い行為を、彼女が歌にするとこんなにカッコイイ。

我々リアルタイムで彼女と走りながら、それに気付いて女子である自分が好きになっていったのだと思う。

ではタイトルの「ユーミンの罪」とは何か。

筆者は「女が内包するドロドロしたものをあっさりキラキラに変換してくれた。そしてそれが永遠に続くだろうと我々に錯覚させた」ことだと言っている。

やがてユーミンのアルバムから離れ、子育てを終え、私は数年前ピンクの着物姿で「春よ来い」を歌うユーミンを紅白で見た。
刹那的な感情を鋭く切り取り、共感を私を含めたすべての女性にまき散らしてくれたユーミンは、どこかの基点で(それは多分子どもを産むか産まないかの選択)少なくとも私とは違う道を歩いたのだ、と認識した。
キラキラは永遠には続かないことを私はずいぶん早い時点で気付いたように思う。

ともあれ、八王子に実家のある夫と付き合っていた頃「中央フリーウェイ」のビール工場を見るたびに幸せだった私。
千鳥ヶ淵のフェアーモントホテルが無くなって建った現在のマンションの窓から桜を眺めて「経る時」を想う私。
種目は違えど夫(となったボーイフレンド)のテニスの試合をお揃いのトレーナーを着て応援しつつ「ノーサイド」を受け止めようとした私。

そうです、ユーミン。
当時、私はあなたと同じでした。





自宅、冬の犬 [マイハーベスト]

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この寒さの中、ホイケの練習は佳境に突入。
素足、冷たい。

日本でハワイアンダンスを踊る意味を考える。

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iPhoneの調子が悪い。

タップしてもドラッグしても反応遅し。
バッテリーも急激に減る。
もう5年前に買った4Sだから、寿命なんだろう。

ゲームもLINEもやらないし、メールもほとんど業務連絡程度だし、ほとんどマナーモードになりっ放しなので誰も滅多に電話してこない。
本来の機能行使は最小限だ。

でも、この小さな箱にはオペラとフラとドラムの曲がぎっしり詰まっていて、これまでに習得した語彙をストックした英和辞典も、メトロノームもステップの動画も地図もみんな収納されているから、財布を忘れて外出したことは何回かあるが、これを置いて出掛けたことは無い。

近日中にまた新しい小箱に5年間積み上げてきたものを全部移し替えなければならないことを思うと憂鬱。

iPhone依存度が大きい割に、本は紙媒体と決めている。
老眼鏡かけてページを繰る、その所作が好きだから。

iPhoneは、PCはもちろん、辞書もCDも(アンプに繋げられるからスタジオ練習、本当に楽ですね)iPodもレコーダーも取り去ってくれたが、電車の中で読む本は依然として手荷物として存在する。

その数グラムの重みを楽しむ。

哲学書の後に、久しぶりにどっぷり文学っぽい文学に浸かりたくなってきた。
今まで見たことも聞いたことも無い世界へ誘われる感傷を求めて。

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「冬の犬」(アリステア・マクラウド著/中野恵津子訳/新潮社)

カナダ東端の極寒の島、ケープ・ブレントン。
スコットランドの古いゲール語を未だ残すその地に、遅き歩みをためらいながら続けるいくつかの凡庸な人生が展開する。

劇的な展開は何も無い。
ただそこで変わりなく営まれる林業や酪農を糧とした日常が、知的で淡々とした筆致で描写されているだけだ。

著者は、かの地で生まれ育ち、のちに大学で英文学の教鞭をとった短編の名手。
ここに収められているのは、31年間に16篇という寡作の作家の、珠玉の8篇。

役立たずの烙印を押された金色の飼い犬との秘密を回顧する「冬の犬」、死んだ男とのただ一度の交わりを一生抱きながら、島の灯台守に人生を捧げる島の女を描く「島」など。

行間から立ち上るのは、ストーリーや感情ではなく、匂いと温度と重さ。

食料になるために分解されていく家畜の内蔵や血の温度。
溢れ出す牛の精液の温かく饐えた匂い。
極寒の海に投げ出されて衣服が飲み込んでいく海水の重さ。

月並みな言い方だが、自然の荒々しさの前には、ぬくぬくとしたモラルや規則や社会通念は、形を変えるものだと痛感する。

まさに、今の時期に読みたい一冊。

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春から助産師学校で学ぶことになった手芸上手なナースが、孫達に。

新しい世界へ飛び立とうとする人の背中は、いつ見てもいいものだ。



自宅、言語学の教室 [マイハーベスト]

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お寒うございます。

私が足を突っ込むと同時に布団の中にもぐり込まんと構えるミナサン(-1となってしまったトイプーたち)。

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お屠蘇気分で購入した電子ドラム到着。
玄関に積んだまま約1週間である。

未だ私は朝霞台の貸しスタジオ通いである。

そう。
この組み立てが難関。

こういう場合、普通は夫君が工具片手に甲斐甲斐しく立ち働いてくれるものだろうが、我が家の場合、コンセント抜けているのも調べずにTVが点かないと騒ぎ立てるくらい機械音痴夫だから、最初からさらさら自分がやろうなんて思ってない。

我こそはと思う方、募集中です。

さて、一週間以上ブログ更新が空いてしまった。

理由がある。

読んだ本が面白くて面白くて、絶対コレ、ブログに書きたい!と思うのだが、何しろ哲学系の本なので読み慣れないせいもあり、一度読んだだけでは意味が把握できないんである。
そんな本ならフツーはつまんなくなるでしょうと思うが、面白いんである。

哲学ってどうでもいい事象を人間の深層心理まで掘り下げて、無理矢理理屈をくっつける学問っていうイメージで、一時次男が大学院在学中にゼミの読書会に入って凝っていた時、私も何冊か哲学書系にトライしたが挫折の連続だった過去がある。

哲学なんて何がおもしろいんだかなー。
ネコはネコ、イヌはイヌでいいじゃん。

しかしこの本を読むと、イヌという語の意味は何か、ではなく、イヌという語の意味を理解しているということはどういうことなのか、を考える局面に立たされる。

3回、読み直した。
3回、読み直すモチベーションを途切れさせない面白さがそこにある。
新書版には3回分の付箋が貼られている。
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ご紹介しよう。
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「言語学の教室 ー哲学者と学ぶ認知言語学」(西村義樹・野矢茂樹著/中公新書)

認知言語学とは耳慣れない言葉だが、「私たちのものの見方・感じ方・考え方、そしてまた生き方や行動様式という観点から原語をとらえていこうという学問」(本文抜粋)のことである。

これだけ聞いただけで即アレルギー反応を起こされる方もおられようが、要は、ほとんどの方が無機質でつまんなくて学生の時苦労させられたぜと思っている文法解釈では割り切れない構文のニッチな部分をちょっとヒューマニスティックな視点から眺めると、なーるほどと言えるようになるよ、って感じかな。

例を挙げるのが一番早いんだが、誰かから何かをされたわけでもないのに、受け身の文で「雨に降られた」というのはごく普通に使うが、「財布に落ちられた」とは誰も言わない。
これはなんでなんだろう、という投げかけから二人の言語哲学者の討論は始まる。
(あ、これは、西村・野矢両氏の対談形式で書かれています)

「ダビデがゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は同じ意味か。

「太郎が花子に話しかけた」と「太郎が花子に話しかけてきた」との違いは何か。

日本人としてはそんなこと考えたこともない、考えてどーすんだってレベルの話しをあえて理屈で掘り下げてみるのは、今日自然に使い分けている文章が今まで学校で習ってきた文法ではどうも説明がつかないから。

とりわけそこが、日本語を学んでいる外国人からはどーにも分からないポイントになるのは自明の理だろうし、逆にその日本語に慣れ切ってしまっている我々が英語を学ぶ時にやりにくいところでもある。
日頃英語を勉強する時に、「あー、この和文は訳しずらいなー」とか「えー、英語じゃこういう構文になるのぉ?」と躓くところは、ことごとくこの本を読めばその理由が分かる。

その白黒付けきれていない部分を、普通我々が言語的ではない(=文法の問題ではない)と想定している心の動きまで考慮に入れて解明しようというのが認知言語学なんである。
(ふぅ〜、うまく説明できたかしら?)

「雨に降られた」「彼女に泣かれた」が受け身で表現されても自然なのは、認知言語学的に言えば、”迷惑受身”(間接受身=「叱られた」vs「叱った」のように直接対応する能動文を持たない受動態)の条件を満たし、自分ではどうしようもないことを人格を持たないモノに”されちゃっている”状態(つまり自分が受身の状態)にある時である。

迷惑受身が成立するには人間臭い条件が3つあって、①それをされてイヤだなと思う気持ち(受苦)、②自分ではどうしようもなかったあきらめの状態(締念)、③自分の管理下にない状態(他者性)を定義づける。

財布は自分で管理が出来るものであるから③の条件が抜けているわけで、そこには迷惑受身が成り立たないんである。

・・・で「雨に降られた」はよくて「財布に落ちられた」はおかしいんじゃないか、と。

まあ、こんな具合に「よく考えるとなぜ?」という言語や文法を解析していくわけだ。

そんなに厚くない新書なので、3回読むファイトがあるなら、是非読んでみてください。
ホントにおもしろいです。



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